この歌は、柿本人麻呂が新田部皇子に献(たてまつ)った長歌(二六一番歌)の反歌として『万葉集』巻三に収められています。長歌の方には、「やすみしし わご大王(おほきみ) 高輝(たかて)らす 日(ひ)の皇子(みこ) しきいます 大殿のうへに ひさかたの 天伝(あまづた)ひ来(く)る 白雪(ゆき)じもの 往(ゆ)きかよひつつ いや常世(とこよ)まで」(皇子がいらっしゃる大殿の上に降ってくる雪のようにいつまでも行(ゆ)き通いましょう)とあり、新田部皇子が居住する大殿(皇子宮(みこのみや))において皇子を褒(ほ)め称(たた)えた歌であることがわかります。両歌から、この日は新田部皇子宮のあたりで雪が降っていたとみられます。なお、反歌第四句「雪のさわける」(漢字本文「雪驟」)は「雪にうぐつく」などの異訓もあり、訓(よ)みが定まっていません。 『日本書紀』などの記述によると、天武天皇には十人の男子がおり、叙位の順番などから、高市(たけち)・草壁(くさかべ)・大津(おおつ)・忍壁(おさかべ)・磯城(しき)・穂積(ほづみ)・長(なが)・弓削(ゆげ)・舎人(とねり)・新田部皇子の順に誕生したとみられています(寺西貞弘『古代天皇制史論』ほか)。出生順については異なる説もありますが、新田部が最年少の男子であることは確実で、初めての叙位年である文武天皇四(七〇〇)年頃に成人したと想定されます。 新田部の母親は藤原五百重娘(ふじわらのいおえのいらつめ)(藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の娘)で、天武天皇との歌のやりとり(『万葉集』巻二・一〇三、一〇四番歌)から、鎌足が邸宅を構えた大原(現在の明日香村小原(おおはら)付近)の地に五百重娘も居住していたことが知られます。今回取り上げた歌の内容からみて新田部皇子宮からは矢釣山が見えたはずであり、矢釣は大原の北隣に当たる現在の明日香村八釣(やつり)付近と考えられますので、新田部皇子宮は五百重娘の邸宅の近くにあったか、あるいは母子同居していたのかもしれません。 (本文 万葉文化館 竹内亮)
発掘調査時の様子 (写真提供 明日香村教育委員会)
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