この歌は題詞に「近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」とあり、柿本人麻呂が天智天皇の近江大津宮のあたりを通った際、その荒れた都を詠んだものです。巻一は時代順に並んでおり、この歌は持統天皇の時代の作として、「春過ぎて…」の歌の次に配列されています。 初代の神武天皇から代々天皇は大和に宮を置いていたのに、そこを離れて、「いかさまに思ほしめせか」近江の大津に宮を置かれた天智天皇の宮はここだというけれど、すっかり面影もなく、見ると悲しいことだ、と歌います。「いかさまに思ほしめせか」は挽歌によく用いられる表現で、失われたものを惜しんで投げかけられる挿入的な句です。顧みられなくなった場所に対する鎮魂の歌でもあったのでしょう。 天智天皇は六六七年三月、国防上の理由などから近江に遷都しました。六七一年天智天皇が崩御すると、六七二年壬申の乱が起こります。天智天皇の皇子である大友皇子が破れ大海人皇子(後の天武天皇)が勝利したことで、宮は近江から飛鳥に戻ります。この歌の作歌時期には諸説ありますが、少なくとも六八六年天武天皇崩御後の作であり、人麻呂が見た近江大津宮は乱から十五年程度経過していることになります。 人麻呂の作と明記されたうち、年次のわかる最も古い歌は六八九年の草壁皇子挽歌(巻二・一六七番歌)ですが、今回の歌はそれより古い可能性があります。人麻呂の最初期の長歌であるといえます。掲載には省略しましたが、この歌には6箇所にわたり「或云」という注が付されています。人麻呂の推敲ではないかと見られ、人麻呂が歌としての完成度を追求した現われと考えられています。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
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