今年度の「はじめての万葉集」では、『続日本紀』に登場する人々の歌を紹介していきます。 この歌の作者は「高安」とだけ記されていますが、天武天皇の皇子である長皇子(ながのみこ)の孫にあたる高安王の歌とみられています。 『続日本紀』によれば、高安王は和銅六(七一三)年に無位から従五位下となり、養老・神亀年間を通じて位を上げていき、天平十四(七四二)年に正四位下で没しています。元明・元正・聖武の三代に仕え、伊予国守や阿波・讃岐・土佐を管轄する按察使(あぜち)や、衛門府(えもんふ)の長官などを歴任した人物です。 この歌の表現からは、長皇子の孫とはいえ一官吏として、五月の節句にも休みなく働かざるを得なかった様子がうかがえますが、実態ではなく、歌の表現上のことであった可能性も考えられます。 万葉歌に詠まれた「橘」とはミカン類の総称であり、「花橘」は実ではなく花を鑑賞する際に用いられた語のようです。「花橘を玉に貫(ぬ)」くという表現もあり(巻三・四二三番歌、巻八・一五〇二番歌など)、平安時代の端午(たんご)の節句で無病息災(むびょうそくさい)を祈って飾られたという薬玉(くすだま)を連想させます。この歌もそんな季節感あふれる歌だといえます。 高安王はまた、紀皇女の禁じられた恋の相手としても伝えられています。『万葉集』巻十二・三〇九八番歌の左注には、養老三(七一九)年に伊予国守に左遷(させん)されたと記されています。ただし、天武天皇の子である紀皇女は年代があわず、別人かといわれます。 この歌の作歌年は不明ですが、そうした悲恋のエピソードを持つ人物だと知ると、花橘とともに思い起こす妻とは紀皇女で、彼女に会えないことを嘆いた歌に見えてきます。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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