この歌は奈良時代の官人、門部王が東の市の樹を詠んで作った歌です。題詞には「後に、姓大原真人(かばねおほはらのまひと)の氏を賜へり」との注も付されています。ややこしいことに、同時代に「門部王」という同名の人物が二人存在しているのですが、『万葉集』に載る門部王はすべて後に「大原真人」を賜ったほうの門部王であると指摘されています。門部王は七三四年に朱雀門での歌垣(うたがき)の頭を務めるなど風流な人物として知られます。今回の歌はそれより早い時期の作ですが、歌に優れた人として東の市の樹という題で創作・披露したとも考えられます。 東の市は平城京の左京八条に位置し、右京八条には西の市が設けられていました。とりわけ東の市の周辺から多数の貨幣が出土し、にぎわっていたことがうかがえます。西の市についても『万葉集』に一首、「西の市にただ独り出(い)でて眼並べず買ひにし絹の商(あき)じこりかも」(西の市に一人で行って、見くらべもせず買ってしまった絹の、買いそこないよ。/巻七・一二六四番歌)という面白い歌があります。これは早まって結婚してしまったことを喩(たと)えているとも言われます。ただ、これは「古歌集」にあった歌と注されており、藤原京の西の市という説もあります。 今回の歌で詠まれた木の種類は不明ですが、市には目印になる木が植えられていたようです。それが「木足る」、すなわち生育して枝葉が茂るほど長い間、逢えず恋しい、という歌です。 門部王は七一九年伊勢守(いせのかみ)に任ぜられました(『続日本紀』)。その後出雲守(いずものかみ)になったようで、『万葉集』の出雲守門部王が京を思う歌(巻三・三七一番歌)では「わが佐保河」を歌っています。これらの歌などから、左京(平城京の東側)に邸宅があったかという指摘もあります。この歌の背景には京を離れ、恋しく思う期間があったことが関係しているのかもしれません。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
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