この歌の作者は大伴旅人です。『万葉集』の編纂(へんさん)に深く関わった大伴家持(やかもち)の父にあたり、『万葉集』や『懐風藻(かいふうそう)』に優れた詩歌作品を残しました。政治の世界でも活躍し、大納言従二位まで昇ったことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されています。元号「令和」の元となった梅花宴の主催者としてご存じの方も多いのではないかと思います。 旅人は、神亀五(七二八)年頃に大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)として大宰府に赴任しました。当時の大宰府は大陸との交流拠点であり、先進の文物がいち早くもたらされる地でした。天平二(七三〇)年に行われた梅花宴も、中国文化に倣(なら)って催された文雅(ぶんが)の宴であり、中国原産の植物である梅の花を愛でつつ、漢詩文を換骨奪胎(かんこつだったい)した和歌が数多く詠まれました(巻五・八一五~八四六番歌)。 この歌は、沙弥満誓(さみまんせい)から贈られた歌(巻四・五七二、五七三番歌)に対して、旅人が返した歌の一首です。満誓は筑紫で観世音寺を造る任務にあたっていた人物で、梅花宴にも参加していました。 「筑紫や何処」とありますが、大宰帥であった旅人が筑紫の方角を知らないはずはありません。生きて帰京できないかもしれないと嘆いていた(巻三・三三一、三三二番歌)老齢の彼にとって、帰京がかなった今は、友のいる筑紫が果てしなく遠い場所となったようです。「白雲のたなびく山」も、不老長寿をつかさどるという西王母(せいおうぼ)伝説中の白雲謡(はくうんのうた)を踏まえた、遠方を意味する表現でした。 旅人の帰京は七三〇年の末頃とみられており、約半年後の七三一年七月にその生涯を閉じました。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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