この歌に詠まれた「奈良の大路」とは、平城京の朱雀(すざく)大路のことです。 当時の都は碁盤の目状の街並みが特徴的であり、中心に、平城宮の正門である朱雀門と平城京の正門である羅城(らじょう)門とを結ぶ、幅七〇メートルを超える朱雀大路が通っていました。その一部は現在「朱雀門ひろば」として復元・整備されています。また、羅城門は大和郡山市観音寺町・奈良市西九条町の羅城門橋付近にありました。橋の上から北を見ることで、平城京の規模を実感することができます。 整備された都大路は行きやすいけれど、と詠むこの歌の作者がいるのは真逆の行き難い山道だったようです。当時の最も立派な道を引き合いに出すことで、対照的な山道の様子が強調されています。 作者である中臣宅守は、『万葉集』巻十五の目録によれば、蔵部(くらべ)の女嬬(にょじゅ)(下級の女官)であった狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)を娶(めと)った時に、勅断により越前国へ配流されたとあります。宅守がなぜ流罪となったのかについて詳細は伝わっておらず、諸説があります。宮中の女官との婚姻が処罰の対象となったとも、流動する政局の犠牲者ともいわれています。『続日本紀』には、天平宝字七(七六三)年に従六位上より従五位下となり、翌年の藤原仲麻呂の乱で除名されたとあります。 この歌は、その中臣宅守と狭野茅上娘子との六十三首に及ぶ贈答歌群(巻十五・三七二三~三七八五)の中の一首です。流刑者として都から越前国へ向かう途中で詠んだことを想像させる内容といえます。 ただし、特定の人物の贈答歌群としては巻十五の半分を占める異例の歌数の多さであり、物語的な構成でもあることから、全てが本人たちの実作ではない可能性が指摘されています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
朱雀大路は南北約3.7 kmにも及ぶ、かつての平城京のメインストリートでした。この朱雀大路を基準に碁盤の目に区切られた平城京の都市が計画されました。羅城門は外国からの使節を歓迎する外交儀礼の場所であり、朱雀門前の大路では、雨乞いなどの儀式が行われていたとされています。大路の両側には柳が植えられ、高く築かれた築地塀(ついじべい)が延々と続く壮大な景観に、海外使節たちは圧倒されたのかもしれません。
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