都に咲く花を譬喩(ひゆ)に用いて平城京の繁栄を高らかに歌ったこの歌は、九州の大宰府にて詠まれました。都を遠く離れた大宰府で、なぜこのような歌が作られたのでしょうか。 作者の小野老は、大宰府の次官である大宰少弐(だざいのしょうに)の官職にありました。老は大宰府の政務を報告する朝集使として神亀五(七二八)年十月頃に上京、翌年四月頃に大宰府へ戻り、この歌を詠んだと考えられています(直木孝次郎『万葉集と古代史』)。老が都に滞在していた神亀六年三月、平城宮で叙位があり、老は従五位下から従五位上へと昇進しました。 叙位の直前の二月、都では左大臣長屋王が国家を傾けようとした罪を着せられて自殺に追い込まれ、これに連坐して多くの人々が処罰されるという大事件が起こりました。事件の後始末が一段落した直後に行われた三月の叙位では、長屋王亡き後の新たな体制下で活躍が期待された人々が名を連ねています。老もその一員であったとみられます。 こうして大宰府へ戻った老は、大宰帥(だざいのそち)(長官)大伴旅人が主宰する宴席に招かれ、出張の労をねぎらわれました。長屋王の変という大事件の一報を耳にしていた旅人以下の大宰府官人達は、事件の推移を都で実際に見聞きして戻ってきた老を迎えた席上において、今後の不安や懸念などを含むさまざまなことを老に尋ねたに違いありません。これに対して老は「都は花の盛りを迎え、今まさに繁栄の真っただ中ですよ」と、都における新体制への期待をことさらに明るく歌い上げ、宴席に淀む重い空気を払拭しようと努めたのではないでしょうか。 (本文 万葉文化館 竹内 亮)
国営平城宮跡歴史公園の朱雀門ひろばには、道幅70mを超える平城京朱雀大路、朱雀門の前を東西に走る二条大路が復元され、路傍(ろぼう)には奈良時代に生えていたと考えられるエンジュやヤナギなどの街路樹が植栽されています。 街路樹に咲く花々は、平城京の風景に色彩を添えていたことでしょう。
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