奈良時代の官人・大伴家持は『万葉集』で最多の歌を残しており、最終的な編者と考えられています。『万葉集』は七五九年正月に家持が詠んだ歌で閉じられており、その歌番号は四五一六番。今回の四五〇一番歌は、『万葉集』の終わりに近い部分の歌です。 七五八年二月、平城京右京二条二坊(現在の西大寺国見町)にあった中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)の邸宅で宴(うたげ)が催されました。主人である清麻呂と参加者たちが歌を詠んでおり、家持もその一人です。時期は現在の三月後半ごろにあたり、この前の歌には「梅」が詠まれています。続く今回の歌では「八千種の花」が詠み込まれ、松と対比されています。梅も散り、桜もやがて散ってしまう一方、松は常緑であり、永遠の象徴とみなされました。それを「むすぶ」という行為は、植物の生命力を取り込む呪術でした。枝を頭髪に挿す「かざす」や頭に載せる「かづらく」にも同様の力が信じられていました。『古事記』のヤマトタケルの辞世歌にも、平群の山の立派な樫の葉を髪に挿して長生きするように、と歌われています。 さて、家持は七四四年正月にも「たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思ふ」(霊魂の極みの命はわが手の中にない。ともあれ松の枝を結ぶ私の気持ちは、命長かれと思うことだ。/巻六・一〇四三番歌)と松の枝を結ぶ歌を詠んでいます。このときは聖武天皇の御子・安積皇子(あさかのみこ)の長寿を思っていたようですが、叶いませんでした。 今回の宴では四十歳前後の家持が宴の主人である五十七歳の清麻呂に向け、「常磐なる松のさ枝」の歌を詠んだと考えられます。この後、中臣清麻呂は正二位にまで昇り、七八八年に八十七歳で亡くなりました。家持の松の枝を結ぶ思いが実ったのでしょうか。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
大伴家持は、奈良県内をはじめ赴任先でも数多くの歌を詠み、『万葉集』で最多となる470首以上の歌を残しています。家持の父・大伴旅人(たびと)は元号「令和」の出典となった『万葉集』巻五「梅花の歌三十二首」の序文の作者としても知られています。この宴で旅人は梅の花を雪に見立てた歌を詠み、家持もその後、父の歌を踏まえて「我が園の李(すもも)の花か庭に降る…」(巻十九・四一四〇番歌)と李の花を雪に見立てた歌を詠んでいます。
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