今号から「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」にゆかりのある万葉歌を紹介していきます。 この歌は「神岳(かむをか)に登りて山部宿禰(すくね)赤人の作れる歌」と題した長歌(巻三・三二四番歌)と一組の短歌で、作者である山部赤人は、神亀年間~天平初年に活動し、儀礼的な長歌などを詠んだことで知られる歌人です。後世の「小倉百人一首」にも採られた富士山歌(巻三・三一八番歌)をはじめ、風景の描写に定評があり、近代には叙景歌人とも称されました。この歌が詠まれた年代は不明ですが、赤人の活動時期から、七二四年に即位した聖武天皇の時代の作歌と考えられます。 当時の都は平城京であり、何らかの理由で飛鳥を訪れたとみられますが、赤人の生没年や官吏としての記録は残っておらず、この長歌作品が生まれた背景もよく分かっていません。 ただ、聖武天皇は自らのルーツである天武・持統両天皇を重視し回顧的な政策をとったといわれ、天武天皇が壬申の乱に勝利して即位した飛鳥の地は、聖武天皇にとっても重要な場所だったと考えられます。赤人の飛鳥訪問に聖武天皇との関わりを想定する見方は多く、聖武天皇代の宮廷歌は巻六に集中して収められていることから異論もあるものの、何らかの公的な場で披露された歌だった可能性が指摘されています。 赤人はこの歌で立ちこめる川霧のように消えない「恋」を詠んでいますが、人間相手の恋情とは違うようです。長歌で、高々と山が聳(そび)え川は雄大で春も秋も素晴らしい景観だ、と中国風の理想の都として飛鳥を褒め称えていることから、旧都への慕わしい思いを「恋」と表現したとみられています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
明日香村の中央を流れる飛鳥川は、『万葉集』でも数多くの歌が詠まれ、古代より人々に親しまれてきました。 稲渕の集落を流れる飛鳥川には橋の代わりの飛び石が置かれていますが、『万葉集』の中で「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」(巻十一・二七〇一番歌)という歌が詠まれているように、飛鳥時代からこのような飛び石が利用されていたと考えられています。
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