作者は、推古天皇のあとを受けて即位した舒明天皇(在位:六二九~六四一年)です。 推古天皇は、田村皇子(たむらのおうじ)(後の舒明天皇)と山背大兄王(やましろのおおえのおう)(厩戸皇子の子)の二人を有力な皇位継承候補と見なしていましたが、どちらも決め手に欠けていました。推古天皇が後継者を決めることなく崩御したため、豪族たちの意見も分かれました。結局、大臣(おおおみ)である蘇我蝦夷(そがのえみし)などの支持を得た田村皇子が即位しました。 即位の経緯などから蘇我氏の傀儡(かいらい)と評されることもある舒明天皇ですが、天皇の支配を象徴する儀礼である国見を挙行したことが当該歌から知られます。国見とは、元来は春に行われる農耕儀礼で、秋の収穫への予祝行為でした。それが、支配者が国土を見渡せる高所に登り、国の地勢や民の生活状況を見る儀礼となっていきます。 大和には多くの山がありますが、大和三山の一つである天香具山に登った舒明天皇が、自身の営んだ宮である飛鳥岡本宮をはじめとした国土を見下ろし、国の豊かさを誇示しています。統治者としての権威が可視化されているのです。 その支配領域を示す語として「海原」が用いられていますが、天香具山の標高は約150mであり、海が見えるわけではありません。「海」は、必ずしも海面を意味せず、例えば、琵琶湖に「近淡海(ちかつあわうみ)」などの称があるように、湖や池などの広々とした水面も意味します。すなわち、周辺の埴安(はにやす)・耳成(みみなし)・磐余(いわれ)などの池を指すのでしょう。「国原」と「海原」の語を並べることで、陸と水の広がりを意識させていると考えられます。
(本文 万葉文化館 中本 和)
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