はじめての万葉集

県民だより奈良
2024年9月号

はじめての万葉集
【vol.125】
山の端(は)に あぢ群騒(むらさわ)き 行くなれど
われはさぶしゑ 君にしあらねば
岡本天皇(おかもとのてんのう) 巻四(四八六番歌)
山の端にあじ鴨の群が騒ぐように人は行くのだが、私はさびしいことよ。君ではないから。
二代の岡本天皇

 『万葉集』巻四は、恋の歌を中心とする「相聞(そうもん)」の巻です。今回の歌は、巻四の巻頭近くの長歌、「岡本天皇の御製一首」(四八五番歌)に付随する短歌二首の一首目です。
 長歌では、多くの人々が鴨のように群れて行き交うが、私が恋い慕うあなたではないので、日々眠ることができず今日も夜を明かしてしまった……と詠まれます。続くこの短歌でも人々を鴨にたとえつつ、自らの心情を「さぶし」と表します。「さぶし」の語は対象の不在や喪失の際に抱く感情に用いられ、「悲し」と言い換えられる例も見られます(巻一・二九番歌、巻三・四三四番歌)。「ゑ」は不愉快な感情につく間投助詞で、『日本書紀』の歌に「あれは苦しゑ」という例もあります。「さぶしゑ」に続く「君にしあらねば」は、長歌にある句をそのまま繰り返したものです。人はたくさんいるけれど、あなたではないので寂しい、という歌です。
 さて、題詞の「岡本天皇」について、次のような注が付されています。―いま考えてみると、高市岡本宮と後岡本宮と、二代二帝それぞれ別である。ただ岡本天皇とだけいうのではどちらを指すのか明らかでない(四八七番歌左注)。―舒明天皇の岡本宮(六三〇~六三六年)と、同じ場所に斉明天皇が再建した後岡本宮(六五六~六六一年)があり、歌の作者が舒明天皇なのか斉明天皇なのか不明だという注です。
 『万葉集』で「君」は女性からみた男性を指すことが多く、この歌の「われ」は女性である斉明天皇とみるのが穏当ではあります。また巻九にも斉明天皇について「岡本宮御宇天皇」と記したと見られる例があります(一六六五番歌題詞)。ただ、舒明天皇が男性に向けて詠んだとみる余地もあることから、「どちらかわからない」という左注が残されているのでしょう。
 舒明天皇の岡本宮は明日香村の国史跡「飛鳥宮跡」の最も早い時期の1.期遺構、後岡本宮は3.―A期遺構が相当すると考えられています。
(本文 万葉文化館 阪口由佳)

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木村圭吾《情焼く》
奈良県立万葉文化館蔵
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