この歌は、長屋王が「寧楽山」に馬をとめて作ったという題詞を持つ歌です。 寧楽山とは、現在の奈良市北部の平城(なら)山丘陵を指すと考えられます。大和国(やまとのくに)と山城国(やましろのくに)との国境であり、古代の旅においては、そうした場所で土地の神に布・紙・玉などの供え物を捧げて、旅の無事を祈る風習がありました。「手向け」は、現代日本では死者の冥福(めいふく)を祈るという仏教的なことばとしての印象が強いかもしれませんが、この歌のように神へ物を供えることもいいました。 そうして長屋王が峠の神に祈ったのは、自らの旅の無事だけでなく、逢いたいと願う家に残してきた妻の無事でもあったかもしれません。 作者である長屋王は、高市(たけち)皇子と御名部(みなべ)皇女の子であり、天智・天武両天皇の孫にあたる人物です。平城京内の長屋王邸は、それにふさわしい一等地(現在の奈良市二条大路南)にあったことが、発掘調査によって確認されています。 神亀(じんき)元(七二四)年に左大臣となりましたが、神亀六(七二九)年に謀反の罪に問われ、自害したことで知られます。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記述によれば、密告に基づく断罪であったということですが、実態は藤原氏の謀略であったと考えられています。また、聖武天皇にとっても、文武天皇と藤原宮子の間に生まれ即位したばかりの自身に比べて、両親ともに皇族であり政治的な実績もある長屋王が脅威であったという指摘もあります。 『万葉集』には他に四首の歌が載り、現存する最古の日本漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』には長屋王邸で新羅からの使者をもてなす詩宴が開かれたことがうかがえ、長屋王自身も三首の五言詩を残しています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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