本歌を含む四三七三~四三八三番歌の十一首は、四三八三番歌の左注によると、下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)の防人(さきもり)の詠んだものとして収められています。元々、進上された歌は十八首でしたが、出来の良くないものは収められなかったと記されています。また、本歌の左注によると、作者は、梁田(やなだ)郡(現在の栃木県足利市)の人、大田部三成です。すなわち、三成が防人として西海道(九州)に向かう途中で詠んだことが分かります。 防人とは、古代に辺境の防備についた兵のことです。天智二(六六三)年八月、百済(くだら)救援戦争(白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦い)で唐・新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた日本には、大陸からの派兵に備える必要が生じていました。そのため、九州北部沿岸の防備が、以前よりも重視されるようになったのです。 防人は、本歌のように東国から徴発されることが多く、その往還も負担の大きいものでした。難波は梁田郡から大宰府までのおおよそ中間点にあたります。「難波門」は難波の門(入口)と考えられますが、「門」を「津」の誤りとする説もあります。 難波から大宰府までは、瀬戸内海を船で通過することが通常でした。そのため、難波からは比較的安全な内海を通り、九州上陸後は自らの足で歩く距離もあと少しとなります。また、難波までの食料は防人本人の負担でしたが、以降は公用として支給されました。 難波から出航して一息ついた際に、故郷のある東を向くと、生駒山が目に入ってきます。生駒山を神々しいと詠んでいますが、どのような想いで見たのでしょうか。 (本文 万葉文化館 中本和)
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら