優良賞

 「寛容であるということ」 

                       奈良学園登美ヶ丘中学校 3年 岩田 百花

  「人の言うことを素直に聞きなさい。」何度も同じ事を言わせないで。」
母はいつも私にこう言います。いくら注意されても同じ事を繰り返してしまう、私にはそれが多いです。そして、その度に私はいつもこのように母に注意されます。そんな事を繰り返しているうちに私は自然と(どうして注意されても忘れてしまうのだろう。)と疑問を持つようになっていました。しかし自分では気付く事は出来ず、叱られる度にその疑問は深まるばかりでした。しかし、それは母のある言葉がきっかけで明らかとなりました。私がいつものように注意されていると母が
「ごめんなさいと言っているけれどそれは本心なの?人の意見を受け入れる気がないよね。」と言いました。私はこの母の言葉に対して何も言い返せませんでした。そんな事、考えた事も無かったからです。
 言葉では「ごめんなさい。」と言っていました。しかし、私の心のどこかで(そんな事を言っても、どうせ私の方が正しいのだ。)と思う気持ちが確かにありました。表面上の言葉だけで、心がその言葉に伴っていなかったのです。自分が全て正しくて、それと異なるものは間違っていると母の注意を無視してしまっていたのです。それはすなわち人の価値観を受け入れられないという事で、それは私の友達との関係にも顕著に表れていました。
 「○○ちゃんってちょっと無理。」
家に帰って来るなり真っ先に私の口に出るのは人の文句でした。人と関わっていく程人の嫌な点ばかりが目についてしまっていました。そしてその度に私は母に愚痴を言っていました。人の悪口を聞いてもらうと心が軽くなると思っていたからです。実際、その時はスッキリしました。しかし、本当はむしろ逆でした。人の悪口を言葉に出して言えば言う程余計に人が嫌いになって、人と関わるのがおっくうになっていきました。そんなある日、いつもの通り悪口を言っていると母や妹が
「もう文句を聞くのは疲れた。何か楽しい話はないの?」
とうんざりした様子で私に言いました。愚痴を言う事で、自分だけでなく関係のない家族までをも憂鬱にさせてしまっていたのです。
 「どうして人の嫌な所しか見えないのだろう?」そう思って改めて振り返ってみた時、私は不意に「人の意見を受け入れる気がないよね?」
というあの母の言葉を思い出しました。よく考えてみると私は自分と違うから、自分の価値観と異なるからという理由だけで人を否定し、嫌いになっていました。自分とものの考え方が違うからという理由だけでその人の存在自体をも切り捨ててしまっていたのです。
 人の考え方や価値観は様々で、それが必ずしも自分の考え方と重なるとは限りません。そして、その価値観が正しいのか、間違っているのかは一概に判断する事は出来ません。人と違う事で私達は自分と区別し、人と争います。その一方で、相手の考え方を受け入れて尊重することで、人と人とのコミュニケーションを成り立たせる事も出来るのです。人の価値観は自分だけで形成するものではなく、むしろ他人の価値観を受け入れ、それを共有する事で新たに形成されていくのです。相手を受け入れ寛容な心を持つ事、これが人と関わる中で今の私達に必要だと言えるのではないでしょうか。そしてそれは個人的なコミュニケーションに限った話ではありません。
 今日本、そして世界には性別や人種などで差別され続けている人々がまだ数多くいます。その背景には自分と肌の色や話している言語が違うだけで相手と自分を区別するという意識が根強く残っている事にあります。そしてこの意識を変えていく為には人種や性別で相手を決めつめてしまうのではなく、相手の意見や価値観を聞き入れること、すなわち相手を受け入れる寛容な心が必要なのです。そして寛容な心を持つ為に、まずは友達や家族との身近なコミュニケーションが大切になるのだと思います。
 母の言葉を聞いてから私は相手の価値観を受け入れようと意識するようになりました。すると、今まで見えていなかった相手の様々な面が見えるようになり、自然と心も軽くなりました。それでも、
「人の言うことを聞きなさい。」
寛容な心を持つには時間がかかりそうです。