平成19年度人権問題研修


平成19年度 人権問題研修 講義

だれもが人権の主人公~人権文化をキーワードにして~

講師: 平沢 安政(大阪大学教授)
日時: 2007(平成19)年11月21日
場所: 奈良市ならまちセンター


 目次

はじめに
人権をめぐる5つの動向
らせん状に進化する人権
「反差別」から「人権文化」へ
私の人権観
人権行政とまちづくり

はじめに

 今日は、「だれもが人権の主人公」というタイトルでお話をさせていただきます。人権文化ということばをキーワードにしながら、今、人権を取り巻く国内外の動向がどうなっているのかということや、行政施策の中で人権や人権文化の考え方をきちんと位置づけるのに必要な視点などについて、私なりに考えているところをお話ししたいと思っています。

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人権をめぐる5つの動向
 最初に、国内外の人権を取り巻く状況がどうなっているのかということを概観するために幾つかの例を挙げてみたいと思います。

(1) 環境や人権を優先的価値とする流れ
 まず、私は環境や人権を大切にすることが非常に高い優先順位を与えられる方向へと世の中が向かっているのではないかと考えています。
 例えば、「ニューズウィーク」という雑誌の日本版の今年7月4日号に、「環境や人権を守り、利益も稼ぐ CSR時代のベスト500社」という特集がありました。企業の経営効率がどうなのかという指標と、もう一方では社会貢献や環境・人権などに対する関わりや従業員のことをどれだけ大切にしているかという指標を設定し、その2つの柱で点数をつけて、世界のトップ500社を並べるという、そういう趣旨のものです。このような特集が組まれること自体が、世の中の価値観をめぐる動向を反映しているのではないかと考えています。
 私は、今日のように行政関係の皆さんや教育関係の皆さんの研修会でお話をさせていただく機会が多いのですが、時々企業の役員の皆さんや人権研修を担当されている皆さんにお話をさせていただくこともあります。先日も、ある企業の役員研修ということで、お話をさせていただきました。その企業は、環境問題をめぐる今日の世界的な状況を見すえつつ、環境に負荷を与えない製品開発に力を注いでいるということでした。担当の方とお話をしていますと、人権研修に取り組むときにも、環境重視の視点をきっちり組み込みながら、企業としての今後の戦略を長期的なスパンで考える、そういう発想で普段から考えるようになってきたということでした。このように、最近は各種企業を訪れるたびに、そういうことを強く感じるようになってきました。CSR、つまり企業の社会的責任が環境・人権・社会的正義といった視点から、ますます厳しく問われるようになってきたことが分かります。グローバリゼーションの大きな流れの中で、国際社会における価値観の構造的変化を企業が極めて敏感に感じつつ、未来を先取りするような新しい方向性を打ち出していらっしゃるのだと思いますが、今後の行政施策や教育のあり方を考えるときにも、こういった地球規模の大きな価値観の転換をしっかり押さえつつ、それを人権の視点で読み解いていくということが必要ではないかと考えています。
 
(2) 国家以外のアクターによるグローバルイッシューに対する関与の増大
 2つ目は、「国家以外のアクターによるグローバルイッシューに対する関与の増大」ということです。アクターというのは行為主体ということで、簡単に言うと市民運動や、ヨーロッパにおけるEUという地域機関のようなものが、グローバルイッシュー、つまり地球規模の重要課題に対して関与を深める傾向が見られます。地球規模の重要課題としては、軍縮、環境、人権、社会開発といったものがあります。かつては、こういう地球規模の重要課題を議論するのは政府の代表者であり、例えば国連での話し合いがその基本形でした。ところが今では、国連がこういう問題を議論するときにも、世界から集まってきた膨大な数のNPOやNGOの人たちが各国の政府関係者にさまざまな情報提供をし、政策提言を行ったりしています。政府代表者はそういう情報や政策提言を聞き、世界動向がどうなっているのかということをより適切に理解した上で、今後の国際社会のあり方を議論するという流れになっています。逆に言いますと、国家の代表者だけで地球規模の重要課題に対応することができないということが、今日ほぼ当たり前になりつつあるというふうに見ることができると思います。これは、NPOやNGOなどの市民組織、あるいは市民運動というものがさまざまなところで活動し、多くのデータや知識や経験を蓄積して、国家と協働しながら重要課題の解決に当たっていくという流れだと思います。
 これを日本の自治体行政の考え方に当てはめるならば、自治体が勝手に施策をつくるのではなくて、その施策に関わるさまざまな当事者や市民運動、あるいはそういう経験を持っている人たちとうまく協働しながら立案し、政策を実施する過程にもうまく参加できるような仕組みをつくるというようなやり方が、恐らくこれからの流れになっていくだろうと思います。
(3) 多様性を活力の源ととらえる考え方の広がり
 次は「多様性を活力の源ととらえる考え方の広がり」についてですが、ここでは多文化主義とか多文化教育のことをご紹介しておきたいと思います。このような考え方や取り組みは、とくに欧米各国において、すでに1970年代ぐらいからずっと広がってきていますが、世の中は、例えば宗教が違ったり、民族が違ったり、人種が違ったり、という形で、多様な集団や個人で成り立っています。日本は伝統的にかなり同質性が強い社会でしたので、多様性とか異質な存在と関わることにあまり長けてはいなかったといえるでしょう。しかし欧米社会においては、多様で異質な人々が身近に存在するために、さまざまな葛藤や摩擦を経験しながら、逆に社会の多様性を活力としていこうとする発想を大切にしてきました。多様性を活力にするということは、例えば1+1が2になるのではなくて、5にでも10にでもなるということで、別名シナジー効果(synergy effect)と言われたりしています。異なるものが合わさることによって、新しいエネルギーや価値が生まれていくという発想にもとづいて、多様性を活かそうとするのが多文化主義の考え方であり、教育の世界では多文化教育が推進されてきました。これらは、すでに欧米では非常に長い歴史と蓄積が見られます。日本もそういう考え方に学びながら、多文化共生社会をつくるとか、学校において多文化教育を推進するといったことが、ようやく問題意識に上り始めてきたというところだと思います。
 例えば、OECDは「キー・コンピテンシー」という概念を提唱しています。OECDというのはご存じのとおり、日本も含む先進国がつくる組織であり、「キー・コンピテンシー」というのは、そのまま日本語に訳すと、鍵を握る能力ということです。どういうことかというと、OECDが各国の専門家を集めて、これからの21世紀の時代を生きていく上で身につけておくべき、鍵を握る能力があるとしたら、それは何なのだろうということを研究し、その結果をもとに、つい最近「キー・コンピテンシー」という報告書が出されました。そこでその報告書を最近共同で翻訳出版したのですが、思ったよりも多くの関係者に読んでいただいているようです。こういう考え方に対する関心が強まっていることを改めて認識しましたが、それでは、どのような能力が必要なのか、具体的に見ていきましょう。
 キー・コンピテンシーとして3つの能力が挙げられており、1つはことばとか概念とかコンピューターといった道具、こういうものをうまく活用して、考えたり、分析したり、人に説明したりするという力です。ある意味で学力とつながってくると思いますが、ことばをうまく使いこなしたり、概念を使っていろんなことを分析したり、コンピューターを使って分析過程や結果を提示したりする。こういうものが1つの力とされています。
 2つ目の能力は、将来を志向しながら計画を立てて自律的に生きる力です。つまり、10年後こういう目標を達成したい。そのためには5年後こういうところまで到達している必要がある。そのためには1年後までにこうしなければならない。では今何を準備するのか、といった具合に、目標を具体的に設定し、きちんと計画を立て、責任を持って計画を遂行していく能力。人に言われてやるのではなく、ある目標を設定したら、それに必要な段取りをつけてきちんとやり切るという、そんな自律的に機能する力を2つ目の柱に挙げています。
 3つ目の柱は、異質な集団とも良好な関係をつくって一緒に仕事をすることができる力です。宗教が違ったり、価値観が違ったり、文化が違ったり、あるいは民族や人種が違ったりしていても、そういう人たちと自分がどういうふうにすればうまくかかわることができるかを知っていて、そんな人たちともうまく協働できる力を指しています。要するに、OECDが21世紀を生きる上で重要だとしている3つの「キー・コンピテンシー」のうちの1つが、異なった文化とともに生きる力だということなのです。
(4) 「ナンバーワン」より「オンリーワン」を目指す志向性
 今申し上げたこととも関わってきますが、次は「ナンバーワン」より「オンリーワン」を目指すという考え方の広がりについてです。高度経済成長の時代からバブルが崩壊するまで、日本社会はナンバーワンであることを何よりも重視するような生き方を大切にしていたと思います。経済界もそうだったし、教育もそうだったし、子育てにおいてもそうです。1980年代に入る頃「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本をエズラ・ヴォーゲルというアメリカの研究者が書いて、一種のベストセラーになりました。その頃、日本経済は世界でナンバーワンである、日本は最も経済力がすぐれ、社会が安定し、安全で、国民の教育水準も高い国である、と言われた時期がありました。
 ところが、ナンバーワンを目指した生き方が、経済活動においても、社会のあり方においても、学校教育においても、地域社会においても、子育てにおいても、いろんな問題を露呈させるようになり、もはや日本がナンバーワンである、というような言い方はほとんどされなくなりました。むしろ、いろんな指標で見たときに、日本はこれだけ経済力があるにも関わらず、社会における女性の進出度がどうしてこんなに低いのかとか、さまざまな問題点が挙げられています。人権に関しても、日本は後進国だというようなことをよく国連から指摘されています。
 そんな時代の流れの中で、オンリーワンであることを大切にしようという機運が次第に強まってきているような気がします。これは一般の人々の意識の中でもそうでして、例えば、SMAPの「世界に一つだけの花」という歌がしばらく前に流行りました。もしかすると、今日お集まりの方は比較的年齢の高い人たちが多いので、このSMAPの歌をカラオケで歌うという人は少ないかもしれませんが、結構カラオケでも人気の歌になっているようです。では、どうして人気があるのでしょうか。
 花屋の店先に並んだ花にはいろんな花がある。それぞれ色も形も違っている。それぞれが違っていて、どれもがみんな美しい。なのに人間はどうして、誰が勝ったとか負けたとか、人と比べてどうのこうのと言いたがるのだろう。こうやって花がそれぞれ違う色を持ち、違う形で咲いて、それぞれが美しく、オンリーワンであることを誇らしげにしている。あなた自身も自分自身がオンリーワンであるということをもっと大切に考えませんかと、そんなメッセージが込められた歌だと感じた多くの人が、この「世界に一つだけの花」という歌に魅力を感じるのではないかなと、これは私の解釈ですけれども、そんな気がしたりしてします。
 それからもう1つ、「わたしと小鳥とすずと」というのは、金子みすずさんという若くして亡くなられた詩人の方の短い詩です。小鳥は自由に空を飛ぶことができるけれども、わたしは空を飛べない。でも、わたしは地面を走ることができますよ。わたしは歌を歌うことができますよ。でも、すずは、あのきれいな音を響かせることができる。わたしと小鳥とすず、それぞれ違っているけれども、それぞれにできることがあり、できないことがある。でも、みんな違っていていいんじゃないですかということで、この詩は「みんなちがってみんないい」ということばで終わるんです。
 そんなに長い詩ではありませんので、学校の人権学習の時間においても最近頻繁に用いられているようです。一昨日、大阪府吹田市の学校の先生方やPTAの方が集まられる研修会がありましたが、そこで参加されている400人ぐらいの方にお聞きしたら、この金子みすずさんの詩を知っているという方が半数以上おられましたので、やっぱり人権教育を通じてかなりこの詩は浸透しているんだなと思ったしだいです。
 大阪府の人権室が「ゆまにて」というシリーズの人権啓発冊子を毎年作っていますが、昨年のこの冊子の表紙に使われていたタイトルは、「みんなちがってみんないい」でした。冊子の表紙をめくると、この金子みすずさんの詩がそのまま載っていて、その後、人権についての基本的な重要概念が解説され、人権の重要課題についてひとつひとつ紹介するという、そんな冊子が去年作られています。少し脱線しましたが、今申し上げたかったことは、「オンリーワン」であることを大切にする考え方が、今日的な人権のとらえ方と非常に重なり合っているのではないかということです。

(5) 生きることの質を大切にする考え方
 次は、私たちが生きるときの豊かさとか幸せというものを、量ではかるのではなくて質でとらえようという、「クオリティー・オブ・ライフ(Quality of Life)」ということばについてです。クオリティーというのは質、ライフというのは生活とか命とか人生ということですから、クオリティー・オブ・ライフというのは一般に生き方の質というふうに訳されています。最初にこのQOLということばが登場したのは医療サービスの世界だったと思います。医療の現場で3時間待って3分だけしか診てもらえない、そういう状況ではなくて、患者さん自身が自分の不安にきちんと答えてくれるような医療サービスが受けられる。どういう病状なのかについて医師や専門家がきちんと話をしてくれる。そして、それらの情報をふまえながら、自分自身がどのような治療法を選ぶのかについて、主体的に関わることができる。そんなあり方を大切にしようとする動きとあいまって、「インフォームド・コンセント(informed consent)」ということば、つまり「説明に基づく同意」という考え方がようやく医療の世界でも広がってきました。ただ高度な技術によって延命を図るだけではなくて、末期のがんの患者さんが自分の死を迎える人生最期のステージをどんな風に過ごしたいかを患者さん自身が選び、その最期を心安らかに、いろんな人とのつながりを感じながら迎えることができるようにしようということで、ホスピスなども広がってきました。ただ生き長らえさせるということを目的にするのではなく、生きることの意味や質を大事にする考え方がそこにあると思います。これを医療以外の分野にも拡大すると、「量ではなく質を問う」という発想を大切にしようということになると思います。
 思いつくままに、ざっと5つほど、国内外の人権にかかわると思われる動向についてお話しさせていただきました。

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らせん状に進化する人権
 次に人権をどういうイメージでとらえるかということに関して、少しお話しさせていただきたいと思います。
 私は、人権というものは、「らせん状に進化していく」ものだととらえています。どういうことかというと、人権というものは時代や社会との関係で姿形を変えながら進化していくととらえることが必要なのではないかと思うのです。
 世界の歴史において、奴隷の存在が当たり前とされた時代が長く続きましたが、それが奴隷制は許されないと考える社会に変化しました。ある意味で、人権の当事者と見なされる人々の範囲がどんどん拡張されてきた歴史として、人権の歴史を振り返ることができるでしょう。
 もっと身近な例をあげるなら、行政でお仕事をされてきた皆さんの立場からすると、行政課題の中で人権といえば、まず出発点に同和問題があったのではないかと思います。1965年に同対審答申が出され、同和問題の早急な解決は国の責務であり、国民的課題であるとされました。集中的に予算を投入し、様々な努力を結集して取り組まなければならないほど、当時の日本社会における部落差別の実態や差別意識がひどかったために、特別な法律や施策が必要になったわけです。部落差別を一日も早く解決するということが最重要課題でしたから、行政の取り組みにおいては、「人権と言えば部落問題」というところから、特に大阪や奈良ではそんな形でスタートしました。
 こうして同和問題を中心にした行政の取り組みが進む中で、同和問題だけではなく、障がい者、女性、そして在日韓国・朝鮮人の人権を加えた、この4つのカテゴリーが、次第に人権の重要課題として認識されるようになっていったと思います。いわゆる「4大差別」というとらえ方です。ところが、多くの行政関係者の意識の中では、この4つの差別問題を直接担当している行政部署は人権に関わっているけれども、そういう問題を直接担当していないところは人権とは無関係であるという認識が支配的でした。自治体における人権行政とは、4つの差別問題とかかわる部署の問題である、といった、非常に限定的でいびつな認識があったような気がするのです。
 ところが、「人権教育のための国連10年」が1990年代半ばから始まり、その行動計画において「人権の重要課題」としてあらたにリストアップされたものがありました。それは、4つの差別問題だけでなく、子どもの権利、高齢者の権利、HIV感染者やハンセン病回復者の権利、プライバシーの権利、刑を終えて出所した人の権利など、非常に幅広い人権課題を「人権の重要課題」と位置づけて、それぞれについて等しく人権という視点から対応する。こういう考え方が、今からちょうど10年ぐらい前に広がっていったわけです。同時に、そういう個別の人権問題や差別問題と直接関わることだけが人権行政なのではなくて、むしろ行政サービスのすべてが、広い意味で人権と切り離せないものだとする考え方が広がってきました。言いかえると、「行政=人権行政」という視点で行政のあり方を組み立てる必要があるという認識がしだいに広がってきたのが、この10年ぐらいだったのではないかと思います。
 さらに、「人権の重要課題」として10年ほど前に列挙されたものと比べて、今日また「新たな人権課題」が浮上してきました。例えば、性的マイノリティーの人権と呼ばれる問題です。性的マイノリティーというのは、同性愛者であったり、性同一性障がいであったりする人々のことです。
 「人権教育のための国連10年」の頃には、あまり性的マイノリティーの問題は取り上げられてはいませんでした。ところが、その後、当事者がさまざまな問題提起をするような状況が生まれ、性的マイノリティーの権利を尊重するということが人権課題として次第に重要な位置を占めるようになってきました。ただ、全体的な状況から見ると、性的マイノリティーの人権に対して正しい認識を持っている行政関係者や教育関係者は、まだまだ限られていると思います。しかし、これから5年10年の間に、日本社会のローカルな場においても、こういう問題がもっと焦点化されていくだろうと思います。
 ご参考までにお話しておきますと、今年5月に大阪市が『ローカルからグローバルへ グローバルからローカルへ』という題で国連の「人権教育のための世界プログラム」(2005年~)を紹介する人権啓発冊子を発行された時に、その文章を書かせていただいたのですが、その中に資料として加えていただいたものがあります。それは、「世界がもし100人の村だったら」という有名なお話です。これから行政であれ、教育であれ、人権に関わるお仕事をしていかれるときに、絶対知っておかれたほうがいいお話だと思いますので、ぜひ一度読んでいただきたいと思います。
 今、地球の総人口が66億を越え、まもなく70億に迫ろうとしています。世界の人口を100人の村に例えると、この地球の現状をどのように描きだすことができるだろうか、という趣旨で作られたのがこのお話です。世界がもし100人の村だったとすると、57のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人、という具合に、大陸別の人口分布がまず示されます。さらに52人が女性で、48人が男性、と続きます。そして、「89人が異性愛者で11人が同性愛者」と書かれています。日本では異性愛、つまり異性を愛情の対象とするのが当たり前であり、正常である、という考え方がずっと支配的であったと思います。そのため、少しずつ変化してきたとはいえ、同性愛者の女性や男性に対してはいまだに偏見の目で見たり、笑いの対象にしたりするということが、一般に許容されている状況があります。ところが世界を見ると、例えばヨーロッパやカナダなどでは、同性愛者同士が結婚することを権利として認め、そのような結婚を祝福する教会もたくさん存在しています。
 ところが、日本では、同性愛者のカップルがいたとして、自分のパートナーが、仮にどこかで事故に遭い、いつ死ぬかもしれないという状況におかれても、たとえパートナーとして一緒に住んでいたとしても、その法的な裏づけがないために面会も許されない。また、財産の扱いについても何ら法的な保護がない、という現状です。そのため、同性愛者の人々が、法的な権利や社会的承認を求める声をしだいにあげるようになってきました。
 このようにして、人権行政の課題として、性的マイノリティーの人々の権利をどう尊重するのかということが登場してきているわけです。そして、今後はもっとそうなっていくだろうと思います。「100人のうち11人が同性愛者」という数字については、どのようなデータを根拠にするのかによって変動する可能性がありますが、同性愛者である自分の思いや苦しみを人に言うこともできずに悶々と苦しみ、またそのことを明らかにしたがゆえに、親から勘当されたり、社会から揶揄されたりするなど、かつて同和地区の人が、その出自ゆえに不当な扱いを受けたのと同じように、社会的排除の圧力を受ける対象になったりしている現実があるのです。
 私たちがこれまで人権擁護の名のもとに作ってきた考え方や制度というものが、不当な価値観や尺度に基づいて特定のカテゴリーに属する人間を排除したり、その権利を認めないような慣習を打破してきたのだとすると、私たちは今、性的マイノリティーの人たちが主張することにきちんと耳を傾け、人権や民主主義の観点から必要な施策や制度をきちんとつくっていくことが必要ではないかと思います。
 もう1つ、「らせん状に進化する」ということで例を挙げますと、女性の人権ということを考えても、例えば日本では長い間「女には権利などない」という価値観が支配していました。日本だけでなく、世界においても、女性には投票権がなくて当たり前と考える時代が長く続きました。ところが、婦人参政権という運動が起こり、日本もその流れを受けて、女性の参政権が認められるという時代になりました。そして、1970年代の終わりに国連で女性差別撤廃条約が採択されたことを受けて、日本においてもそれに見合う国内法の改正が必要だということで、男女雇用機会均等法がつくられ、今度は雇用の場における採用や昇進の男女平等を裏づける法律や制度、仕組みが作られ、それがさらには男女共同参画社会作りとなり、今や行政の中では男女共同参画社会を作るということは「当然必要なこと」とみなされるようになってきました。これも、歴史の中で次第に変化し、進化してきた側面です。ところが「らせん状に進化する」ということは、また次のステージがあるということです。実際、女性の人権ということをめぐって今日非常に焦点化している大きな問題は、セクハラの問題です。
 大阪大学でも、近年セクハラは大きな問題になっています。大学キャンパスが直面している最大の人権問題は今やセクハラである、といえるかもしれません。恐らく自治体でもそうでしょう。民間企業でも同様だと思います。これは、10年前にはほとんど想像することもできなかった事態だと思います。かつてであれば「こんなことぐらいわからないのは可愛くない」と男の論理が平然と幅をきかせていたのが、「今やセクハラは犯罪です」と明確に定義され、セクハラ防止のガイドラインや仕組み、相談窓口のあり方が、どんどん整備されていくようになってきました。
 今、大学キャンパスでは、セクハラということに対する認識が広がると同時に、アカハラという問題がクローズアップされてきています。セクハラはセクシュアル・ハラスメント、つまり性的な嫌がらせですが、アカハラというのは、アカデミック・ハラスメント、つまり学問や教育に関わる領域でのさまざまな嫌がらせを指しています。最近、アカハラを訴える事例がしだいに増えてきました。京都大学、岡山大学、東北大学など、幾つかの大学では、アカハラに対するガイドラインや相談窓口を作っています。大阪大学も、そのようなガイドラインを間もなく策定しようと、学内の人権問題委員会を中心にさまざまな議論を重ねているところです。
 大学という機構は、伝統的に密室的な部分をかなり多くもってきました。それぞれの研究室には教授、助教授(現在は、准教授)、助手(現在は、助教)がいて、そのピラミッド構造のもとに大学院生や学部生がいて、教授が全体を仕切る大きな権限をもつ形になっていました。しかもほとんどの教授が男性であり、この密室的な雰囲気の中で、アカハラやセクハラが起こってきたのです。気に入らない学生がいると、「自分の言うことを聞かないと、将来大変な目に遭うぞ」と圧力をかけたり、若い研究者の研究データや成果を横取りしようとしたりするなど、本当に恥ずかしくなるようなことが過去にはしばしばありました。ところが最近では、人権侵害を許さないという空気が全体にひろがり、訴えにもとづいて行われた学内調査の結果、セクハラやアカハラの加害者が懲戒処分にあったりする事例も増えてきました。また、大学の教育・研究にかかわる倫理の問題も、ガイドラインがつくられたりするなど、社会の通念にも反するような倫理違反は許されないという雰囲気になりつつあります。このように、人権尊重という共通の価値観にもとづいて、さまざまな新たな課題が浮き彫りにされ、組織のあり方が問い直されています。以上、人権がらせん状に進化していく、というお話でした。

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「反差別」から「人権文化」へ
 従来、1965年の内閣同和対策審議会答申、いわゆる「同対審答申」をきっかけにして、部落差別の問題を中心に「差別をしない、させない、許さない」ためのさまざまな取り組みを、行政や教育が行ってきました。その結果、「部落差別はしてはならないことである」という認識が随分広がったと思います。しかし、だからといって、部落差別が完全になくなったわけではなく、最近とりわけ深刻なのは、インターネット上で起こっている差別事象です。また、例えば2005年の大阪府民対象の人権意識調査の結果などを見ると、2000年の時点よりも大阪府民の意識においては部落に対する否定的なイメージが拡大し、部落や同和地区を避けようとする傾向が強まっていることを示唆する数字が出たりしています。このように、決して一直線で部落差別が解消の方向へ簡単に行っているわけではありません。
 しかもこの2005年の府民人権意識調査というのは、一連の同和行政をめぐる不祥事がマスコミで大きく取り上げられる前の時点で行われたものですから、もし今同じような形でサンプル調査をやったら、恐らく部落や同和地区に対する多くの人たちの意識は、より否定的方向にシフトしている可能性が高いだろうと想像するわけです。要するに言いたいことは、これまで随分同和問題に関する教育や啓発に取り組み、また同和対策事業に取り組み、部落差別を許してはならないということを伝えてきた結果、多くの人々の間に部落差別反対の考えが浸透し、またそういうことを真剣に考えようとする人も確実に増えてきたわけですが、他方ではこういう問題について、本音はちょっと違っていても、少なくとも仕事上あるいは建前上、「こんな場面ではこう言っておけば安全だ」というように、形骸化してきた面もあったと思うのです。
 特に問題なのは、学校教育や市民啓発の場において、しばしばこのように形骸化したやり方が続けられてきたために、本音のレベルでは「人権というと、何か難しそう」とか「厄介だ」とか、「自分にはどうすればいいかわからない」といった疑問を、多くの人々の間に潜在化させてきたような気がします。「要するに人権といえば、差別を受けている部落の人たちの問題」、「在日の人たちの問題」、「障がい者の問題」という具合に距離感をもって認識し、「私とは違う、あのかわいそうな人たちが人権問題の当事者であって、私はその人たちと関係なく、そういう立場でなくて良かった」みたいに認識の中でねじれた連想が定着し、「私は人権の主人公」という基本認識が十分育ってこなかった面があったと思います。そのために、現実に人権を侵害されている人々が、どんなつらさを感じ、どのようにしてそこから新しい可能性を見出そうとしているかについても、心から共感することができないようになっているのではないか、という気がします。
 時間の関係でそろそろ本論に移りますが、要するに申し上げたいことは、「人権を他人事とみなすようなやり方はもうやめにして、人権はすべての人の共通課題であり、すべての人が人権の主人公である、というところから出発する人権行政、人権教育、人権啓発を組み立て直さないといけない」ということです。それが、世の中において多数派と少数派の立場におかれた人々が同じ地平で人権ということに向きあい、互いに手をつないで歩むことができるために必要な考え方だと思います。その際のキーワードになるのが「人権文化」ということばです。「人権教育のための国連10年」の行動計画を通じて、人権文化ということばが日本の人権教育・啓発の世界に入ってきました。そして私たちは、日本の人権教育、啓発、行政の中で、このことばを使って、新しい人権教育や人権施策のあり方を考えてきた経緯があります。そのポイントは、ただ「差別をしなければよい」という観点にとどまるのではなく、「より豊かな人権文化をこの社会につくり出すために、何をどう変えなければならないのか」という発想で、人権をだれもが自分の問題として考えられるようにしていこうということです。

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私の人権観
 次に「私の人権観」というところに話を移したいと思います。実はここが、今日一番掘り下げてお話ししたいことなんです。今申し上げましたように、人権はすべての人の問題であるということについてですが、1948年に作られた世界人権宣言において「人はすべて生まれながらにして自由であり、その尊厳と権利において平等である」とされたことは皆さんもご存じのことと思います。「すべての人が尊厳と権利について平等」ということが、世界人権宣言の根幹にある人権観です。部落の人だけが、障がいを持った人だけが、というぐあいに、限定をつけて尊厳と権利を語っているのではないのです。では、「すべての人が人権の主人公」ということはどういうことなのか、この点についてしっかり認識するところから、あらためて出発する必要があるだろうと思いますので、今から人権を4つのレベルに分けてお話したいと思います。

(1) 個のレベル
 まず1つが「個のレベル」です。個というのは、私たち一人ひとりという意味ですが、さて皆さんには、自分自身が人権の主人公、主体であるという、そういう前提で今からのお話を聞いて考えていただきたいと思います。「あなたは、ありのままの自分のことが好きですか」と問われたとします。「今さらそんなことを聞かれても、もうこれだけ長い人生を生きてきたのに」、と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、「あなたは、ありのままの自分のことが好きですか」と問われて、さあ皆さん、どうお答えになるでしょうか。「ありのまま」というところに注目していただきたいのですが、「有能な自分」、「人からいい人だと思われている自分」、そんな自分はOKだけれども、「できない自分」、「駄目な自分」、「弱い自分」はちょっと隠しておこうとか、見ないでおこうとか、こういう考え方では「ありのままの自分が好き」とは言えません。できるところもあればできないところもあり、よいところもあれば悪いところもあり、長所があれば短所があり、というぐあいに、人間というのは誰もが、その両面を持って存在しているわけで、私も含めて皆さんもそうだと思います。人から有能だと思われている自分にだけOKを出して生きている人は、そういう生き方を続ける中で、いつの間にか人の期待に応えることだけが生きがいのようになってしまい、本当に自分がやりたかったこと、こだわりたかったことを見失ってしまうということがあります。これは子どもでもそうです。親や教師が有名校に進学できるように偏差値を高めることを期待し、その期待に沿えば自分の存在を認めてもらえると思って一生懸命勉強に打ち込んで偏差値を上げようとする、そんな子どもたちが抱え込むしんどさがあります。去年奈良県で起こった有名進学校の事件のようにです。親の期待に応えられないために、自分がまるごと否定されるような扱いを受け続け、そんな自分ではだめだとしか思えなくなってしまう。そして、自己否定の感情やストレス状況が極度なところに至った結果、あんな事件を起こしてしまったのではないかと推測します。
 つまり、「社会的に不利な立場におかれた一部の人が」という問題ではなくて、だれもが状況によっては同じような困難さを抱え込むことがあるのではないかと思うのです。皆さんもご自身のことを振り返ってみてください。人の期待にただ応えようと無理をして、本当はできないことなのに引き受けてつぶれそうになったことないでしょうか。人に、自分はいい人間だと見せることがとても大事だと思うあまりに、弱い自分を見せることができず、それがかえって自分をしんどくさせてしまって、孤独になったりしたことはないでしょうか。
 これは世界の人権教育で共通して言われてきたことですが、良いところも悪いところも含めて、そのありのままの自分にOKを出せる人が、本当に自分を大切にできる人であって、そうやって本当に自分を大切にできる人が他者の人権も心から大切にできるのではないでしょうか。この言い方は、どの国の人権教育でも驚くほど共通して指摘されてきたことなんです。
 日本でも、ようやくそういうことが人権教育の場で言われるようになってきました。できないことがあっても別にいいではないか。でも、自分のできることをしっかり大事にしましょう。駄目なところがあってもいいじゃないですか。その自分の持っているよいところを輝かせましょう。こういう風に、できないことは「できません」といったん認めた上で、でも自分ができることを一生懸命にやる、そしてこだわりたいことにきちんと向き合う、そうしたときに初めて人間は、持っている力や可能性や良さが引き出されていって、そんな自分だからこそ、「この私であって良かったと思いますよ」と、また自分自身に誇りをもって、「私なりの輝いた人生をつくっていこうと思います」、となるのです。恐らくそういう人が、長い目で見たときに、最も自分らしく生き、自分らしく輝き、その人の持ち味とか力を発揮するのだろうと思います。
 世の中の差別事件やいじめなど、いろんな問題を見ていても、そこで浮かび上がってくるのは差別したり、いじめたり、排除したりしているその人自身が、決して差別したり排除したりする性格を生まれつき持っていたわけではなく、ある状況や関係性の中で、自分より弱い立場の人間を排除したり、いじめたりすることで、自分自身のどうしようもない気持ちを何とかまぎらわせようとするのです。言い換えれば、それぐらい脆弱で不安定な自分がそこにいるのだと思います。根本原因は、そういう人間をつくってしまったところにあるわけです。だからこそ、ただ差別はいけないと説教するだけでは不十分なのです。より本質的には、そんな脆弱さや不安定さを生み出してしまう状況や関係性を放置したまま、ただ口先で「差別するな」、「人権は大事だ」とお題目のように唱えたからといって、世の中の人権文化が豊かになったり、人権意識が高まったりするわけではないのです。生き様の中で、「ありのまま」の自分を肯定できるような生き方や関係性というものを作っていくということが、もっとも大事なのではないかということです。
 このことは「自尊感情」ということばで呼ばれています。自尊感情の「尊」というのは、「尊大」という意味ではありません。ほかの人と同じように、自分も等しくかけがえのない尊厳を持つ存在であるという感覚、つまり、「オンリーワン」の、「唯一無二の」自分としてかけがえのない値打ちを持っているという感覚、これが自尊ということです。他の人と比べて、勝った、負けた、良い、悪いではなくて、私が私としてかけがえのない値打ちを持っている、この私を愛おしく思う、この私を私らしく生かしたい、と思う気持ちを自尊感情と呼ぶわけです。何よりも人権の原点はそこにあるということです。
 世の中に差別があると、その不当な差別ゆえに自分の責任でもない事柄で人から冷たい目で見られたり、排除されたりするわけです。例えば部落の人々はそういうことを経験してきました。障がいを持つ人も同様です。自ら選んで、自らの責任でそうなったわけでもないことがらを理由にして、社会が自分という存在を否定的に見てくる。そんな扱いを受けると、当事者は恐らく、ありのままの自分を「これでOK」と思いにくくなります。要するに、従来の差別という問題も、この自尊感情や自己実現という観点からとらえなおすことができるし、差別を受ける立場というカテゴリーに属さない人も、自尊感情や自己実現という同じ土俵で問題を考えることができる。だから、すべての人が人権の主人公という発想に立つときに、個のレベルで何を共通の問題としてとらえる必要があるのかということをお話ししたわけです。

(2) 他者関係のレベル
 次は、他者関係のレベルです。今度は「あなたは、さまざまな他者といい出会いを重ねてきましたか」という問いについて考えてみてください。ここで言う他者は、単なる「その他大勢の他人」という意味ではありません。例えば、皆さんが日本人だとすると、皆さんは、外国籍で異文化を背景に持った人たちと何人ぐらい親しい人間関係をこれまでにつくってこられたでしょうか、ちょっと考えてみてください。皆さんが健常者であるとすると、障がいを持って生きている人たちで親しくかかわってきた人は何人いますか。皆さんが部落出身でないとしたら、部落出身のどんな人たちと豊かな交わりをもって今生きておられるでしょうか。皆さんが公務員だとすると、公務員という仕事とは違う世界で生きている自営業の人、民間企業の人、専門職の人、そんな人たちとのかかわりをどれだけ持ってこられたでしょうか。こう考えていくと、世の中には、すべての人にとって、自分とは異質な文化や境遇や価値観を持った人々がたくさんいるわけです。この日本においても、そのような人々は多様な形で存在すると思います。年齢が違ったり、出身地が違ったり、健常者、障がい者、男性、女性、異性愛者、同性愛者、子ども、高齢者など、さまざまな尺度で見たときに異質な存在が多様な形で存在しています。そんな異質性を持った人たちと、いい形で出会えたり、いい関係を育むことができたりする社会ほど、人権文化は豊かだと言えるように思います。
 さて、奈良県ではどうでしょうか。外国人と日本人が対等の関係で、いい形でお互いから学び合うような関係性で生きることができているでしょうか。健常者と障がい者が対等の関係で出会える、障がいを持った人たちが自由にまちに出られる、物理的にも制度的にも心理的にもそんなバリアフリーなまちづくりが進展しているでしょうか。部落出身の人とそうではない人が、お互いから学び合い、ともに何かに取り組むような関係性が広がっているでしょうか。高齢者と子どもたちが、いい形で出会えるような場ができているでしょうか。同性愛で生きている人が異性愛で生きている人たちと、お互いを対等に尊重しながらかかわる場面があるでしょうか。そういう視点から多文化共生を進めることが、人権文化をより豊かにすることにつながるというふうにとらえていただければと思います。

(3) 社会関係のレベル
 次は、社会関係のレベルです。社会関係というのは、私と社会がどのようにつながっているのかということです。ここでは「あなたは、社会に対して良いインパクトを与えていますか」という問いを用意しましたが、これをもっと具体的に言うと、皆さんは、「あなたがいてくれたおかげで、私も勇気を持つことができました」というように、例えば、皆さん自身がこの世の中に存在していること自体が誰かにとって意味を持つ、感謝される、そういう経験をどれぐらいしてこられたでしょうか。「そのままのあなたでいいのですよ」と自分が丸ごと受けとめられた経験があるでしょうか。あるいは、皆さんが一生懸命頑張ってやったことを、「あなたが頑張ってくれたおかげで、しんどい仕事でしたけれども、うまくいってよかったですね」と、皆さんの働きや努力が正当に承認された、認められたという経験をどれぐらいお持ちでしょうか。
 人間は恐らく、自分が存在していることを誰かがきちんと認めてくれている、あるいは自分なりに努力してやったことが、世の中の役に立っている、誰かに感謝されるようなことにつながっているというように思えれば思えるほど、内なる力をよりよい形で発揮するものです。逆に、自分という存在を周りが認めることなく、ただ否定したり無視したりする。自分が少々努力して何かをやっても、何もなかったかのように、誰も顧みてくれない。むしろ、非難されたり、迷惑がられたりする。そんな否定的な扱いを継続的に受け続けると、人間は自分の持っている力すらも発揮できなくなり、下手をすると、それでもなお自分がこの世の中に存在しているということを知らしめたい、認めてほしいという根源的な欲求があるために、社会にとって悪いことをすることで、自分の存在を知らしめようとするような不幸な事件がたくさんあります。
 人間は、幸か不幸か、ただ衣食住が足りただけで、それでよしとはならないのです。もちろん、人間が生きていく上で最低限の安全や生理的な欲求がきちんと満たされるのは、必要なことです。国際社会でも、ベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)という言い方で、これは「人間が基本的に必要としていること」を意味しますが、基本的ニーズを満たすことから開発や国際協力の取り組みを始めるのが原則となっています。しかし、人間は基本的なニーズが満たされたからそれでよしではなくて、一体自分は何のために生きているのだろう、自分がこの世の中に存在していることはどういう意味を持っているんだろうということを、つまり実存的というか、哲学的な問いを持ちながら、悩んだり考え込んでしまったりすることがある生き物なのです。人間は社会的な生き物で、何のために生きるかという自分の存在の社会的な意味というものを絶えず探し求めようとするからです。
 人権が尊重されることが大事なのは、人権が尊重されることによって、誰もが、「自分はこの世に存在していていい」、「この世に生きる値打ちを持っているんだ」と思えることが大事だからです。ここにはまさしく、生きる意味ということが深く関わっていると思います。そうなると、誰もが仕事を通じて、あるいは地域活動や社会的活動を通じて、ボランティアという働きを通じて、子育てを通じてという具合に、その姿・形はいろいろあるかもしれませんが、自分が確かに今の時代にこの社会とつながって、私のやっているこの仕事や取り組みが、こんなふうに社会にプラスの意味を持っている。私が一生懸命頑張っている子育てが、次の時代にこんな意味を持つことなんだと確認できている人は、その社会と自分のつながりを自覚することを通じて、社会的な承認を受け、社会とかかわって生きていることの意味を実感しながら生きているのではないかと思います。
 今、自分という存在が社会にとってどんな意味を持つ存在なのかということを非常に強く深く感じながら生きている人、いろいろいらっしゃると思いますが、典型的な例を挙げるとするなら、アメリカのヒラリー・クリントンさんやバラック・オバマさんがその例になるように思います。片や初めての女性大統領、片や初めての黒人大統領という具合に、いずれの候補者も、そんな歴史的意味を持つかもしれない自分という存在を意識しながら、今政治活動をされていると思います。そのように政治という世界で自分と社会のつながりを強く意識して、政治家として活動する人もいたり、NPOを作って市民運動を立ち上げる人もいたり、自分のできるところでボランティアをしたり、そのレベルは色々あると思いますが、これらはすべて、社会関係のレベルで重要な意味を持つことだと思います。
 もしそうだとするならば、奈良県行政を通じて、奈良県民すべてがどうやって社会との関係において自分に意味があると思えるような生き方を育むことができるのか、就学前の子どもたちについても、高齢者についても、障がい者にとっても、同性愛者にとっても、何を大事にすることがその社会とのつながりを意味ある形で実感できるような奈良県になるのかと、このように考えることで、人権文化を豊かにするために必要な施策や課題がおのずから見えてくるのではないかと思います。 

(4) 自然関係のレベル
 最後は、自然関係のレベルです。ここでは「あなたは、自然の恵みに感謝し、謙虚さを大切にしていますか」という問いを掲げてみました。結論を先取りして言いますと、つい最近までは、「21世紀は人権の世紀」という言い方がもう決まり文句のように言われていました。ところが最近、「21世紀は環境と人権の世紀」という言い方がしばしば聞かれるようになってきました。どうも21世紀はただ人権一本ではなくて、環境と人権がセットになっているような時代だと思います。皆さんもご承知のとおり、この世の中において、人間という存在が豊かに幸せに生きていくための権利として人権を考えたときに、地球環境の問題をどうするのかということを、もはや横に置いておくことができないからです。人間が20世紀後半、特に先進国中心に行ったさまざまな人為的活動(生産活動、消費活動等)が、地球環境に多大な傷跡を残し、温暖化を進行させ、酸性雨を降らせ、熱帯雨林を破壊してきました。これらは紛れもなく、すでに私たちの周りで現実に起こっていることです。
 環境問題というと、例えば日本においては、かつて公害のことが大問題となり、水俣病や大気汚染など、さまざまな問題を何とか克服しながら日本社会をつくってきたわけですが、地球規模で見ると、日本も含めてCO2 (二酸化炭素)を必要以上に排出してきたために、地球温暖化が進行し、この状況を根本的に変えないといけないという認識が、京都議定書などもからんでしだいに広がってきました。最近では、中国大陸における石炭の消費によって生まれた炭素化合物が、気流にのって日本にやってくること等も確認されるようになりました。先日もニュースで紹介されていましたが、樹氷で有名な山形県蔵王の山頂付近で、立ち枯れする木が近年目立ってきて、原因調査に入った山形大学の研究者が、樹氷の結晶の中から中国山西省由来と思われる炭素化合物を発見したことが話題になっています。国境をこえて、環境汚染が広がる。そんな時代を今私たちは生きているわけです。まさに環境問題もグローバル化しているのです。だから、私たちの身近なところさえ何とか守ればいいという、そんな発想で自然や環境と付き合うだけでは問題を解決できない時代に入っているわけです。
 日本は、ただ被害を受けているというだけではありません。他方で、日本におけるさまざまな資源の消費は、海外からの輸入に大きく依存しており、日本社会が豊かになることと、第三世界の農業・漁業・林業・工業等のあり方が深く連動しているために、海外から輸入された安いバナナやエビを消費していることが、それらを生産している国々の環境や人々の生活に大きな影響を及ぼすようになっているのです。私たちは、そういう地球規模の相互依存関係の中で、もっと公正な取引(フェア・トレード)のあり方を真剣に考えなければいけない状況になっています。すでにフェアトレードの会など、第三世界とより公正な取引をしようという趣旨の市民運動が日本でも盛り上がりつつありますが、そういうことを国民全体の問題意識の中にもっときちんと位置づけていく必要があると強く感じています。
 自然とどう調和的に生きるかという問題は、掘り下げていくと、このように資源をめぐる地球規模の相互依存関係の問題にぶち当たるし、その相互依存関係を見ると、日本が明らかに収奪する加害的な立場にあることが見えてきます。すると、私たちが今豊かさだと思っているものが、もし不当な収奪の結果として手に入っているのだとするならば、それを今後どのようにして、より公正な取引につくり変えていくのかということは、とても重要になってきます。
 地球規模で見ると、私たちは日本社会に生まれただけで、もう既に多くの特権を手にしているわけです。例えば、簡単に安全な飲み水が手に入ることとか、ほとんどの乳幼児が死なずにすむとか、地球規模で見ると、私たちは日本社会に生まれただけで、さまざまな特権と言えるようなものを持っています。その特権に甘んじるのか、それとも社会や世界をよりよくするために特権を使っていくのか、どちらの立場を選択するのかがとても重要になってきます。
 実はこの話を広げていくと、男性優位の社会においては、男性であるだけですでに特権を与えられています。部落差別が根絶されてない社会においては、部落出身でないだけで、ある種の特権を持っています。障がい者がさまざまなバリアや不自由を感じざるを得ないような社会においては、健常者であるというだけで特権を持っています。こういう具合に、私たちが自分の努力によって手にしたことではない事柄によって、多くの人が既に知らず知らず特権を持っている。しかし、他方では、ある状況や関係性のもとで、そういう特権を奪われたり否定されたりしている人がたくさんいるのです。そう考えると、「私は自分の身の周りが安全で平和で豊かであればそれでいい」というような、自分中心の狭い発想で生きていていいのだろうかという問いかけが、次の課題になってくるだろうと思います。
 私たちが運良く手にした数々の特権があるとするならば、その特権を、特権を奪われてきた人々とどう分かち合っていくのか。それをどのような方向で使っていくのかを考える必要があります。例えばヨーロッパにおいては、もともとフランス語の「ノブレス・オブリージ(noblesse oblige)」ということばがあって、恵まれた者はそれを社会に還元して生かす責任があるという考え方が大切にされてきました。この考え方は、とくにキリスト教世界において強いのですが、日本でもそれに類した考え方をこれからもっと人権教育の中で育てていかないといけないのではないか、と感じています。そうでないと、ますます多くの人が、人権を「私のこの小さな閉じた世界のささやかな幸せ」と同じものであるかのようにとらえてしまうことになってしまいます。しかし、それではよくないだろうと思うわけです。
 

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人権行政とまちづくり
 少し話が脱線してしまいましたけれども、もう時間がありませんので、最後のテーマである「人権行政とまちづくり」ということついてお話ししたいと思います。
 レジュメに「A(少数派)に対するB(多数派)の偏見をなくすために最も有効な方法は」と書きましたが、これは、もともと黒人に対する差別・偏見をなくすためにどうすればよいのかということを研究していたアメリカの心理学者オールポートが見出したことです。その研究において、A(少数派)は黒人、B(多数派)は白人でした。オールポートは、「黒人に対する白人の偏見をなくすために最も有効な方法は、黒人と白人が共通の目標に向かって、対等な関係で協働すること」であると述べました。つまり、黒人に対する偏見は間違っているよと白人に繰り返し説教すること以上に、対等の関係で黒人と白人が協働して取り組むことが重要だとしたわけです。
 これとよく似たことが、最近同和行政の文脈でも強調されています。今、大阪府の同和問題解決推進審議会では、まさにこのことが最も重要なポイントの1つになっており、従来の同和行政が同和地区の環境改善に集中的に取り組んできたとするならば、これから差別意識をなくし同和地区の問題を解決するために重要なのは、同和地区とその周辺地域が、人権のまちづくりという共通の目標に向かって力を合わせることだということです。協働の取り組みを通じて、同和地区の人々と地区外の人々が信頼関係を育て、そのことが人権文化豊かなまちづくりにつながっていくという考え方です。そういうことをこれからさまざまな地域において積極的に行政が仕掛け、支援していくことが重要ではないかと、今大阪では話し合っているところです。すでに地域によっては、そのような実例も生まれています。これが行政における人権のまちづくりにおけるこれからの重要な視点ではないかと思います。
 今日は時間の関係で十分なお話ができず、申し訳ありませんでしたが、「誰もが人権の主人公である」という世界人権宣言のポイントにもう一回立ち戻っていただき、これからの人権行政を効果的に推進していただきたいと思います。その際に、きょうお話しした「人権文化の4つのレベル」という考え方などを参考にしていただき、柔軟で幅広い視点に立った人権行政を、市民や市民組織との連携をはかりながら、今後も全庁的に展開していただきたいと思います。どうもご静聴ありがとうございました。

(参考文献)
平沢安政 『解説と実践 人権教育のための世界プログラム』解放出版社、2005.11
ドミニク・S・ライチェン他著(立田慶裕監訳)『キー・コンピテンシー:国際標準の学力をめざして』明石書店、2006.5
平沢安政(監修)『ローカルを通じてグローバルを グローバルを通じてローカルを:人権教育のための世界プログラム』大阪市、2007.5

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