平成15年度人権問題研修

 


      平成15年度人権問題研修(役付職員)

   「グローバルな視点から考える21世紀の人権社会」
           豊かな人権文化を育てるために


                      
大阪大学大学院人間科学研究科教授  平 沢 安 政

                                                平成15年7月24日(木)
                                             奈良県文化会館小ホール



 

        はじめに 
   皆さん、こんにちは。人権問題研修ということで、今からお話をさせていただきたいと思います。
いただいたテーマは「グローバルな視点から考える21世紀の人権社会」で、副題に「豊かな人権文化を育てるために」とつけさせていただきました。
 最初に、「グローバルな視点から考える」ということの意味について私なりに整理をしてから、それと人権というものを考える枠組みをつなげて、あと4本の柱で述べていきたいと思っています。
 今日は役付職員の方々の研修だと伺っておりますが、「全庁的な人権行政」を「奈良県らしい」やり方で進めていく上で、人権というものをどういうイメージで捉えればよいのか、また人権行政というのは一体何を主たる目的として取り組むべきなのかということについて、皆さんの中で整理していただく機会になれば、基本的な目的は達成されるのではないかと考えています。
 まず、「グローバルな視点」についてです。グローバル(global)という英語は「地球規模の」という意味です。グローブが英語で地球儀を指していることから、グローバルには「地球規模の」という日本語を当てるとわかりやすいと思います。「地球大の」ということでもいいかもしれません。
 最近よくニュース等で「グローバリゼーション」という言葉もお聞きになると思います。グローバリゼーション(globalization)とは、どんどんグローバルになっていくという意味の英語です。例えば、「グローバリゼーション反対」というスローガンを掲げたNGOによるデモが世界貿易機関(WTO)の総会の折に繰り広げられたというようなニュースを耳にされた方もおられると思います。あるいは、著名な知識人が「グローバリゼーションを許してはならない」と主張することもあります。そこで批判されている中身は、アメリカ的な価値観が世界を染めていくような傾向とか、あるいは多国籍企業が世界市場にその触手を伸ばし、結果として環境破壊とか、さまざまな地域での人々の生活が破壊されて、貧富の差や権力の差が拡大していく。今、そういうことになっているのではないかと捉える立場から、グローバリゼーション反対というスローガンが出てきたりする訳です。
 ところが、グローバリゼーションにはアメリカ化が世界規模で進むとか、多国籍企業のマーケット進出が世界規模で展開されるということと同時に、他方では、例えば人権という観点から見ますと、国際社会がつくってきた世界人権宣言や人権関係の条約といった約束事が地球規模で広がっていくということでもあります。独裁体制のもとにある人々や抑圧を受けている人たちが、それまではもう仕方がないとあきらめていた。ところが、世界各地からニュースが入ってくると、同じような状況にいる人たちが、そのシステムを変えるために立ち上がっているというようなことも伝わってくる。例えば、天安門事件の時などに、座り込みをしたり、中国政府に対して自由化や民主化を唱えたりした人たちというのは、もちろん自分たちの願いで動いたわけですが、そのときの大きな刺激となったのは、世界各地で民主主義や人権を求める人たちが動いており、それが世界の一つの流れになっているということを、衛星放送やインターネットなどの各種メディアを通じて知ることで、自分たちの主張が正しいのだという確信を強めたからです。グローバリゼーションというのは、そのように見ると、人権がより世界に普遍化していく、そして世界人権宣言その他、国際社会がつくった人権のルールがすべての社会に適用されるように変わっていくという、そういう側面も持っていると私は考えています。
 ですから、一方ではグローバリゼーションは貧富の拡大や環境破壊などを確かに引き起こしているわけですが、他方では、グローバリゼーションが進む過程で、人権の観点が世界に広がってきたということもありますので、きょうはグローバリゼーションの中で、人権の伸長にとってどういう新しいチャンスが生まれているのか、あるいはどういう思考の変革が問われているのかというところにポイントをおいてお話をしたいと思っています。
 それからもう1つ、グローバリゼーションやグローバル化ということを語るときに、よくこんな言い方がされます。「グローバリゼーションとは、物、金、人、情報が国境を越えて世界中を自由に行き来するようになる過程である」と。これはもう既におわかりのとおり、今、例えば金融の世界で、それがニューヨークであれフランクフルトであれ、どこかで例えば為替変動が起こったとすると、それは1日のうちに世界中に影響を与えます。金融の世界は国境を越えて既に動いているわけです。情報とかメディアもそうです。私たちはITの発展により、茶の間に居ながらにして9・11のテロ攻撃を目撃し、イラクでの戦争を目撃し、そういうものを当たり前のように目にする時代を生きているのです。情報も国境を自由に越えて行き交いしている。人々も、今どんどん自由に世界を移動するようになっています。グローバリゼーションというのは、そういうふうに捉えると、従来いろいろなレベルでさまざまなものを別々に隔てていた境界線がなくなりつつあるということです。国境という境界線がだんだん低くなっていく。そういうふうに境界線が揺らいでいくということもグローバリゼーションの特徴だと思います。
 今の時代は、いろんな意味で境界が揺らいでいると思います。例えば、今日、後でお話しするテーマとも関わってきますが、かつてであれば、例えば行政と住民運動という関係を考えると、住民運動がいろいろ抗議をし、要求をする。行政はそれに対峙しながら、どう応えるか、妥協するかを考える。このような対抗関係を中心にこれまで来たと思います。ところが、今のはやりの言葉は「協働」です。どうやって市民社会と協働するのか。行政だけでやるのじゃなくて、どうやってNPO、NGO、個人などと協働しながら物事に取り組むのかという発想は、もう当たり前のようになってきています。
 これは国際社会でも同じです。国連においても、環境とか、社会開発とか、人権といった重要な問題を話し合うときには、政府代表という「官」の代表が集まって会議をするわけですが、それだけでなく、それをはるかに上回る、環境や社会開発や人権をテーマに取り組んでいる世界中のNGOや個人がそういう会議の場に参加して、ある場合には協議にも参加して意見を言う。政府代表者にロビー活動をして、自分たちの情報や主張を届ける。その結果、もはや、政府代表、いわゆる官だけで地球大の環境や社会開発や人権という問題も考えられなくなり、NGOとの協働が当たり前になってきています。これも従来の境界が揺らいでいる例だと私は思います。
 そのような発想で、今日は人権ということを考えてみたいと思います。ですから、今からお話しすることは、ある意味で従来の延長線上で物を考えるという発想ではなく、従来採ってきた思考のあり方を一旦つぶすというか、それもただ乱暴につぶすということではなくて、なぜそういうやり方や考え方をしてきたのかということを振り返りつつ、しかし、現状に合うような形でそれをつくり直す、こういうことを私たち研究者の世界では「脱構築」と呼んでいます。脱構築して再構築すると言いますが、今日は、そういう意味で、従来型の思考をいったん脱構築して再構築するという観点で考えてみたいと思っています。

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1)「同和」から「人権」へ

 ・特別法、特別施策の終わり
 では、本題に入ります。「同和」から「人権」へというのが最初のポイントです。 ご存じのとおり、昨年の3月末でもって、「同和」という名称をかぶせていた特別な法律や行政施策、あるいは教育のさまざまな施策や枠組み、事業が一応終わりを迎えました。それ以降「同和の時代が終わって人権の時代に入った」というようなことが言われたりします。そして行政の部署の名前にしても、あるいは同和教育などに関わってきた団体名にしても、いろんなところで「同和」という名称が「人権」という名称に移行するということが全国的に起こっています。
 現段階においてはまだ「同和」という特別な施策の時代から「人権」という普遍的な施策の時代に一挙に行くのではなくて、「人権・同和」という名称を使っているところが多いと思います。ところが、大阪などでは、その段階をも一挙に飛び越えて、去年の4月でもって「同和」から「人権」へと移行しました。例えば、従来の大阪府、大阪市などで同和対策事業の窓口となってきた同和事業促進協議会という組織が、去年の4月から大阪府人権協会、大阪市人権協会というように名称を変えました。大阪府同和教育研究協議会という学校同和教育を進める組織名称も、去年の4月から大阪府人権教育研究協議会に名称を変えました。このように、大阪では「同和」から「人権」へという転換が一挙に起こっています。恐らく、全国的にも「同和」から「人権」へというふうに軸足を移していくだろうと思っています。

 
・広がりをつうじて、より効果的、全体的な取り組みを
 しかし、この「同和」から「人権」へという転換をどのように解釈するかということになると、大きく2つの立場があると私は思っています。
 1つは、同和問題はすでに解決したとする立場です。つまり、部落差別はもう重要な問題ではなくなった。同和問題が解決したので、これからは新しい「人権」の時代に移るというように、同和を過去のものにして、これから新しい人権の時代になるというニュアンスで、「同和」から「人権」へという言い方をするわけです。私はその立場とは違って、同和問題は依然重要な問題であるし、今も部落差別は決して解消してはいない。特に労働や教育、あるいは日常的な人間関係のレベルで見たときに、あるいは被差別部落当事者の意識の中で見たときに、まだ部落差別が解消したとは言えない状況にある。しかし、何も変化がないかといえば、それも間違いであって、20年前、30年前と比べて今日の部落差別のあらわれ方、あるいは地域の生活実態などは大きく変化しました。しかし、まだ深刻な問題が残り続けていると捉えています。しかし、だからといって、従来の同和という特別な固有の施策の枠組みをそのまま延長するというのはよくないだろうと、私も思ってきました。むしろ、残された部落差別を解決するためにも、「人権」という普遍的な枠組みで施策を実施する方が効果を持つということで、私は「同和」から「人権」へという移行は同和問題を解決するためにも積極的な意味を持つと考えてきました。
 それともう1つは、「同和」から「人権」へという移行を考えるときに、これはある意味で当然のことですが、「人権問題=同和問題」なのではないということをあらためておさえておく必要があります。人権問題という言い方をするときには、そこには当然同和問題も重要な問題として含まれますが、外国人の人権、女性の人権、障害者の人権、さらに子どもの人権、高齢者の人権、あるいは刑を終えて出所した人の人権など、さまざまな人権のカテゴリーが、例えば奈良県の人権教育10年の行動計画にも列挙されているし、日本政府の人権教育10年行動計画にも列挙されているし、少なくとも今の人権の取り組みという枠組みの中では、それらさまざまな人権課題が挙げられています。私は、それらだけにとどまらず、人権問題はもっと広がりを持って存在すると考えています。となると、同和問題を突出した人権問題として扱ってきた従来の考え方ではなく、同和問題もひとつの重要な人権問題とみなしつつ、しかし、他の人権問題についても取り組みを進める。そして、それらの取り組みを「人権」という普遍的な視点でくくり、ネットワークしていく。これが今の時代の人権施策に求められる発想ではないかと考えています。
 今申し上げたことを簡単に整理しますと、時代は「同和」から「人権」へと転換しており、今後間違いなくそういう方向へ行くだろう。しかし、それは同和問題がもう解決済みで、新しい人権問題の領域が立ち上がったということではなくて、同和問題を解決するためにも人権という普遍的視点が有効であるし、同和問題以外のさまざまな人権に対する取り組みをネットワークすることによって人権総体の水準が高まっていくだろうと私は考えています。そういう観点で、今から人権施策の基本となる考え方を掘り下げていきたいと思います。

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2)「反差別」から「人権文化の構築」へ

  ・差別をしない、させない、許さない(反差別)
 次にお話ししたいのは、「反差別」から「人権文化の構築」へということです。
 従来の同和問題を初めとする人権問題の啓発や研修・教育は、基本的に「差別をしない、させない、許さない」ということを目的に取り組まれてきました。「差別をしない、させない、許さない」ということを前面に掲げてきたのはなぜかといえば、それは、さまざまに深刻な差別が、特に部落差別を中心にして存在し、それを何としてでも断ち切らねばならないという思いから、あるいはその当事者の声を受けて、行政や教育が取り組んできたからです。さまざまな差別や抑圧を受けて苦しい状況に置かれ、自分たちの人権が侵害され、自己実現が否定され、他者との関係を断たれ、社会とのつながり方を制約されてきた被差別の当事者の声に応える形で、「差別をしない、させない、許さない」というスローガンを採択したというのは、これはある意味で必然的だったし、そういう観点で過去、啓発や教育に取り組んだことは、むしろその局面においては大切だったと思います。
 ところが、「差別をしない、させない、許さない」という枠組みから、なかなか次の一歩を踏み出せなかった点に問題があると私は考えています。それはどういうことかというと、「差別をしない、させない、許さない」というのは、確かに重要なスローガンですが、そこに共通しているのは、人権に対するまなざしがすべて否定形で語られているということです。「しない、させない、許さない」と、全部否定形なのです。「○○を抑止する」とか、「○○に対してNO!と言おう」というところで留まっているわけです。NOと言うところに留まり、いつも否定形で語る人権教育や啓発は、そういう教育や啓発を受ける側からすると、いつもいつも、研修や啓発に行くとしんどい話を聞かされる。露骨な差別を描いたビデオを見せられたり、話を聞かされたり、そういうものを読まされたりして、そこで感想を求められる。感想を求められると、それはひどい差別だから、こんな差別はひどいとしか言いようがない。だから「差別はいけないと思います」、「人権は大切にしましょう」という、ある意味ではもう既に決まっていた正解、言わずもがなの正解しか言えないわけです。
 「しない、させない、許さない」ことを目的にいろんな差別の事実を突きつけて考えさせるということは、それは必要であったかもしれない。しかし、人権教育や啓発というのは、いつでもどこでもそういうことをやっていればいいんだ。そういうことをやれば、やったことになるんだ、という思いで、中途半端に上っ面だけなぞるようなやり方で行ったとすると、受け手の側はいったい何を学習するでしょうか。「人権学習というのは、いつもしんどい話を聞かされ、建前だけを語って終わっていく場である、そこで言われる人権問題は、いつもあまりにもしんどそうなので、自分の本音の中では、人権というのはしんどそうだな、あるいは、人権問題というのは、この世の中の一部のかわいそうな人たちの問題を考えてあげないといけないという、そういう問題なのだ」と解釈していくわけです。つまり、「差別をしない、させない、許さない」というやり方が、パターン化して、表面だけなぞるようなやり方だけが浸透していくと、結果として、受け手となる学習者の中には、「人権問題はしんどいこと」、「人権問題は一部のかわいそうな人たちの問題を考えてあげるということ」、「でも、それは自分にはしんどいから、できたら避けておきたい問題」として学習されていく場合があるのです。
 私は、大阪大学に来ている学生だけでなく、他大学の学生、あるいは高校生や中学生、あるいは社会教育を受けてきた人にも、人権教育・啓発に対して共通する否定的なイメージがあるということを知って、愕然とした思いになったことがありました。というのは、私もかつては、人権問題について教えるのであれば、厳しい差別事象や差別問題を突きつけて、「さあ、どう思う。これを許しておけるのですか。」というふうに迫ることが有効であると考え、しかも、そういう機会は多ければ多いほどいいと思っていました。ところが、学生や社会教育を受けたさまざまな人たちの生の声を聞く中で、そういうやり方が形骸化していくと、場合によっては、学習者の中にこちらが意図したこととは全く逆の、「人権問題には関わらないでおこう」、「部落出身者とか、外国人とか、障害を持つ人と下手に関わると、差別だと言われかねないので、関わりはそこそこにしておこう」、「自分はできたらそういう問題にかかわらない生き方をすれば差別しないで済む」、「人権は重たいことでしょせん他人事である」など、そういうマイナス方向への学習をしている面がかなりあるということを知ったことで、私は考えを変えました。つまり、間違ったやり方の啓発や教育にさらせばさらすほど逆効果を生むことがあるという認識です。やればやるほど意識も高まるという相関関係ではなくて、下手にやればやるほど逆効果になる可能性があるということです。すると、問題は、どのようにうまく啓発するか、どのように他人事ではなく我が事として人権を考えるような、そういう人権学習や啓発をつくり出すかということが大切ではないかと思うようになりました。
 ちょうどそんなことをあれこれ考え出したころに、人権教育10年の呼びかけが国連によって行われました。そして、人権教育10年を呼びかけた国連総会の文書をよく読むと、そこでスローガンに掲げられていたのが、「豊かな人権文化を築こう」ということだったんです。「豊かな人権文化を築く」という言い方をそれだけ見ても、まあ別に何ということはないと思えるかもしれません。ところが、私の中には、従来否定形でのみ語ってきたということがよくなかったかもしれないという思いがありました。そういう思いでこの国連の呼びかけを見たときに、何かとても新鮮なものを感じたんです。何が新鮮かというと、人権教育の目的は何かというと、「差別をしない、させない、許さない」じゃなくて、「豊かな人権文化を築こう」だったのです。「世界中に豊かな人権文化の花を咲かせよう」だったのです。否定形ではなく、何か新しい一歩を提案し、呼びかけているわけです。みんなでそれに参加しましょうということなんです。私はその発想にすごく刺激を受けました。ああ、そうだ、否定形でとどまってはいけないんだと。もちろん、否定も大事です。差別を抑止するとか、差別にNO!と言う、これは当然必要だし、ゆるがせにしてはならない大原則です。しかし、そこに留まるのではなく、さらにその先を語り、描き出す必要がある。それは、豊かな人権文化と言えるものを一人ひとりの生活の中に、家庭において、学校や職場、あるいはまち、あるいは奈良であれば奈良県、あるいは日本という社会、そういうところに豊かな人権文化をつくるという発想で人権教育や啓発を考えるといいのではと思うようになりました。
 その時に頭に浮かんだのが、イソップの寓話でした。「北風と太陽」の話です。皆さんもよくご存じだと思いますので、中身を詳しく言う必要がないと思いますが、イソップの「北風と太陽」というお話の中では、旅人のマントを脱がそうと、まず北風が登場しました。北風は、旅人に冷たい強い北風を吹きつけて、その威力でマントを脱がそうと試みたのですが、旅人からすると、冷たい強い北風は、ただ寒いだけですから、マントを脱ぐどころか、むしろマントを必死になって身にまといます。そして動こうとしませんでした。そこへ太陽が登場し、旅人にマントを脱げと直接的に命令するわけでも働きかけるわけでもなく、ただぽかぽかと照りつけただけでした。しかし、旅人からすると、太陽が暖かいから、もうマントをまとっている必要がない。そこで、自らの意思と選択でマントを脱いで歩き出すわけです。このイメージを人権教育や啓発に使ったらどうだろうということを思うようになりました。
 物事は例えを使って語るとわかりやすくなるという面と、例えを使うことで余計混乱する面があるということを十分承知した上で、私は今日、「北風と太陽」の話を例えに使っています。例えば、予想される誤解の1つは、実際にあったんですけれども、人権を守ることを主張する運動団体を北風だと捉えて、「目くじらをたてなくても別にいいじゃないですか」、「何でもオーケーでいきましょう」というような、そんな甘い対応をすることが太陽なんだと勝手に捉えるたりすることです。私があたかも運動を批判して、甘っちょろい人権論を語っているかのように誤解される人がいます。私の言いたいことは全然そういうことではなくて、むしろ北風的な教育や啓発をやると、学習者の側が身を堅くして、自分を覆っているマントに気づけなかったり、脱げなかったりするかもしれないということです。マントというのは、人間の意識ということで考えると、例えば皆さんにはそれぞれいろんな縛りがかかっていると思うんです。いろんなこだわりを持っていたり、自分自身がありのままの自分になりにくかったり、いい人になろうとし、有能であると見せかけようとして本当の自分とは違う自分を演じていたりして、そんなふうに人間はいろんなマントをまとって生きているわけです。いろんな縛りを持って生きていて、場合によっては、そういう縛りを強く持っているが故に、本当の自分の気持ちすらわからなくなったり、本当の自分のやりたいことが見えなくなって、周りに対して不信を持ったり、人と関わるのが不安になったり、要するに、そういう人間個々を縛っているよろいがマントにあたるものです。学習者を縛っているそんなよろいをまず解くということをしなければ、私は人権教育や啓発も功を奏さないと思っています。つまり、よろいを持ったままでいくらいいことを聞いたり学んだりしても、それは血や肉にならないという意味でです。
 だから、私は、なぜ教育や啓発で太陽という発想を大事にしたいかというと、太陽的な人権教育・啓発、つまり、豊かな人権文化を自分たちがつくり出していくという発想に立つことによって、人権という問題を、他人事ではなく我が事として考えるようにする。我が事として考えるということは、自分をも縛っているいろんな殻を取り去っていき、そして、いろんな人ともっと自由に関われるようになり、社会とももっとエネルギッシュに関われるようになる、そういう生き方をつくるのが人権文化の創造なんだと定義づけることで、私は、人権教育や啓発を他人事という土俵から我が事という土俵に移すことができるのではないかと考えてきました。以来、私は、反差別ということももちろん大事だけれども、究極の目標は、否定形で留まるのではなく、人権文化をつくり出すという、そういう肯定的・積極的なところに目標は設定しないといけないと考えてきました。

 
・「たてまえ」の学習から「我が事」としての人権学習へ
 それが、「反差別」から「人権文化の構築」へということです。今お話ししてきたことをもとに人権文化を構築するようなことにつながる人権教育・啓発というものを考えるとするならば、人権というものを考える従来の枠組みを一旦崩す。つまり脱構築し、それを再構築し直さないといけない。人権文化の再構築を試みる上で、私は、「自己実現」という言葉と、「他者と豊かにつながる」という言葉と、「社会にとって意味ある存在となる」という言葉を3つの柱として設定しました。今からその話をしていきたいと思います。
 私は、豊かな人権文化というものを、まず個人レベルでとらえる必要があると思います。人権はすべての人にかかわる普遍的な問題だからです。皆さんは、例えば、「あなたは、あなた自身のことが好きですか」と問われたとして、「ええ、私はこの自分のことが好きですよ」と答えられますか。どうでしょうか。しかも、そのときに、自分の欠点、あるいは自分ができないことも含めて、こういうことはできない、こういうところは自分の欠点であるということも含めて、そういう欠点も、できないことも持った自分を丸ごと、「ええ、私はこの自分が好きですよ」と言えるでしょうかという問題です。どうでしょうか。すべての人にとっての人権を考える出発点は、やはりそこにあるだろうと思います。
 なぜこんなこと言うかというと、抑圧を感じていたり、自分が周りから本当に大事にされていないと思っていたりする人は、自分という存在を丸ごと好きになれないということが多いのです。できるなら違う自分になりたい、できるならこんな欠点を持たない自分になりたい、できるならこんな生まれではない自分になりたい、といったぐあいに、例えば、女性であれば、女に生まれたことは自分にとって損であった、だから、できることなら、もう女でなんかいたくないとか、そういうふうに自分の持っているアイデンティティを、とにかく嫌な事柄、否定すべき事柄として思っているときには、丸ごと自分を受け入れるというのはとても難しいことです。そして丸ごと自分を受け入れられないという状態にあると、逆に自分のよさが発揮できないというジレンマにぶつかることがしばしばあります。人間が最も落ちついて、その人らしさがにじみ出て、その人のやりたいことが追求できて、その人らしく輝いている時というのは、必要以上に背伸びしている時でもなく、必要以上に自分を卑下している時でもなく、ありのままの自分とありのままに向き合えている時の人の姿だと私は思うんです。だから、有名であるとか、お金持ちであるとか、特技があるとか、そういうレベルで自分が輝くとか、輝かないとかいう問題ではなくて、できないことがあってもOK。でも、私はこんなことにはこだわりを持って、こんな自分として生きていることに誇りを持っていますと、そう言える自分。そこが人権の根っこではないかと思います。こんなことを教育の世界では「自尊感情」という言葉で呼んでいます。最近、「セルフ・エスティーム」(self-esteem)という片仮名語で教育の世界でもよく使われるようになってきました。そういうことがなぜ問題になるかといえば、今の学校教育で、小学生でも中学生でもセルフ・エスティームについて調べると、思いのほか低いという現実があるからです。思いのほか低いということは、こんな自分でない方がよかったと思っている子どもたちが実に多いということ、そして他者と関わるということに対しておびえている子どもがとても多いということ、だから、自分が社会とつながって、こんなふうに生きていきたいという夢をなかなか持ちにくいということです。そういう問題の根っこにセルフ・エスティームの低さがあると指摘されて、だから今人権教育は、どうやって子どもたちに、自分らしく輝いて生きるということの楽しさ、あるいは自分が目標に向かってチャレンジするということのやりがい、壁を乗り越えたときの達成感、そういうものを豊かに味わいながら自分の中に自分の値打ちを見出していくような教育に取り組もうとしているわけです。すべてがセルフ・エスティーム、自尊感情という概念にかかわっているわけです。そして、今お話ししている自己実現という問題も、しっかりとした自尊感情を持って人が生きられているかどうかという問題として考えていただきたいのです。そして、皆さん一人ひとりが、自分は自分らしく輝いて生きているだろうか。自分は、本当にこの自分でよかったと思って人生を送っているだろうかという問題として考えていただきたいのです。
 そして、このようにすべての人にとっての自己実現の問題として人権をあえて強調するのは、1つには、人権はすべての人の権利であるという当たり前のこともあるのですが、もう1つは、従来の考え方からの転換を促したいからです。従来の人権のとらえ方においては、人権は部落出身者、障害者、女性、外国人という特定の属性をもつ人たちの問題として語られてきました。行政的には、これらの差別の問題は、しばしば「4大差別」などと呼ばれてきました。そのようにして、差別という問題を4つのカテゴリーに分類して、そのカテゴリーに属する人たちをなべて人権の当事者、あるいは人権の課題を持った人とみなすわけです。これは逆に言うと、部落でも、外国人でも、女性でも、障害者でもない人は、人権の当事者ではなくて、下手すると、差別する立場の人間であるから、そういう人たちは自分が差別しないように常に戒めて生きなさい。そして人権の当事者である被差別という立場の人には、差別に負けない強い人間になりましょうと呼びかける、こういう人権教育や啓発を行ってきたような気がします。
 私は、その考え方が全部間違っているとは思いません。確かに差別によって、人間の生き方がさまざまな制約を受けるという事実はありますから、差別というカテゴリーで考えることは必要だと思います。しかし、この考え方に欠落しているのは、例えば部落出身者という存在を捉えたときに、Aさんという人が部落出身者であったとすると、Aさんは部落差別を受けるかわいそうな人である、人権の課題を抱えた人であるとみなすわけですが、このみなし方で本当にいいんだろうか、そしてまた、Aさんは部落出身者であることによって常に同情されるべき対象でしかないのか、という問題なのです。
 実際にいろんな部落出身者の話を聞いたり、その体験、生活、人生を見たりしてみますと、部落出身者の中に、部落差別があることによって自己実現を非常に困難にさせられている人たちが多数存在するのも事実です。これは部落差別というものがあって、部落差別を受けるという立場に置かれた人からすると、自分が他者とつながったり、社会に何か関わろうとしたり、夢を持って何かを追求しようとしたときに、自分が差別されるかもしれないという不安があるから、丸ごとの自分を受け入れることが難しい。人とかかわるときにも、全部自分をさらけ出すことができなかったりするという形で制約を受けるわけです。だから、差別を受けるという立場に置かれることによって、いろんな制約を被ることは確かに事実です。
 しかし、部落出身者の中で、自分は部落出身であることを誇りに思うというふうに、部落出身であることをプラス価値として捉える人たちもたくさん存在します。それはなぜなのか。差別を受けるという社会的立場にありつつも、その立場に置かれていることが自分にとっては誇りの源であるとか、そういう生まれである自分をよかったと思うという人たちがたくさんいるのはなぜなのかということです。
 どのようにしてそんな意識転換が起こるかというと、かつては自分が部落出身であるということをマイナスの問題としていつも否定的に捉え、隠すべきことと思っていた。ところが、いろいろな人との関わりや、運動で頑張っている人の姿を見るうちに、むしろ、自分が部落出身であるがゆえに、人の本当のつらさとか、逆に、人間が本当にやさしいとか温かいというのはどういうことかということが、他の人以上に敏感にわかる、だから、自分はある意味で、差別されるという立場に生まれたからこそ、人間が本当に大事にしないといけないことがよく見える、そういう自分であるということをよかったと思うという、こういう意識の転換だと思うんです。
 もう80年以上前になりますが、この奈良の地で全国水平社という組織が立ち上げられたときに、「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」と呼びかけた水平社宣言が出されたわけですけれども、その中で被差別部落の当事者が語った精神と同じなんです。「吾々がエタである事を誇り得る時が来た」と水平社宣言に書いてあります。エタという差別呼称をあえて使い、差別されるという立場に置かれ、そういう扱いを受けてきた自分たちではあるけれども、しかし、そうであったがゆえに、自分たちは人の世の冷たさが何であるかを人一倍よくわかると同時に人の世の熱、温かさが何であるかということもだれよりも深くわかった。そんな我々は今、人間が神にかわろうとする時代を生きているんだという、非常に格調高い水平社宣言が書かれたわけです。
 実際、私は、そんな意識変革をしてきた部落出身の多くの人と出会ってきました。自分の人生の中で、自分が部落出身であるということにいろんな道筋を経て折り合いをつけ、今はそのことを自分の力のひとつの源として認識するに至った生き様が、いっぱいあるわけです。同和教育というのは、そういう人間の生きざまと向き合って実践をつくってきた運動だと私は思っています。すると、部落出身者イコールかわいそうな人、哀れむべき人というとらえ方は、これはある意味ではとても偏った、不遜な見方であるのではないか、と思うと同時に、また、部落でも、外国人でも、女性でも、障害者でもない人を人権の当事者ではないとみなすというのもまた大問題だと思っているわけです。
 昨今、いろんな少年犯罪が問題になっています。かつて、17歳の少年犯罪というくくりで語られたこともありました。それらの少年というのは、概して、いわゆる貧困とか差別を受ける立場ではなくて、むしろ経済的に豊かであったり、親が専門職についていたり、郊外の一戸建てに住んで、自分だけの勉強部屋を持っていたり、何不自由なく暮らしていたりする。そんな豊かさの中を生きている子どもたちであるという場合が多いわけです。そしてまた、現代社会で年間3万人を超える人が自殺していますけれども、その中のかなりの割合が40代、50代の働き盛りの男性たちです。しかも、その男性たちは、非常にまじめに一生懸命働いて、泣き言も言わず、周りに愚痴もこぼさず、いろんな問題を自分で一身に引き受けて生きてきた、そういう人たちです。でも、そういう人たちが自分たちの人生を絶っていく。生きる場が見出せないまま、もがき苦しんで、思うように自己表現できないような状況になっていく。こういう問題は、決して部落、外国人、障害者、女性というカテゴリーだけで説明できない。むしろ、今の社会全体を覆っている息苦しさとか、人間関係の難しさとか、人間が生きるということの意味とか、そういうことをめぐるいろんな模索、悩みが根底にあると思うんです。すると、部落でも、外国人でも、女性でも、障害者でもない人は人権の当事者になれないのではなくて、そういう人たちにとっても人権というのは一体どういうことなのかをあえてちゃんと位置づけ直すことを抜きにしては、人権問題を普遍的な問題として語ることはできないと思います。
 そういう意味で私は、「あなたは、あなたのことが好きですか」、「あなたは自分らしく輝いて生きられていますか」、「そういう自分であるということを大事にしながら人生を送っていますか」、あるいは「なりたい自分になるために、いろんな障害とか、いろんな問題を克服しようとしていますか」という観点で人権を捉える必要があるのではないかと考えています。これが自己実現という1つ目の柱です。
 それから2つ目。人間は個人個人がばらばらに孤立して生きているわけではなくて、他者とのつながり、さまざまな他者と関わって生きています。すると、豊かな人権文化というとらえ方も、他者とどう関わるかという側面を含まないといけないと思います。そこで、他者と豊かにつながるということについて考えてみたいと思います。
 皆さんは、これまでにもいろんな他者と出会ってこられたと思います。ここで言う他者というのは、単なる「その他大勢の他人」ということではありません。今言っている他者とは、皆さんの人生の中で、自分が何かを考えたり、判断したり、選択したりする際に重要な示唆を得た他者、あの人があんな生き方をしたのだから私もできるだろうと思わせた他者、あるいは、あの人はこんなふうに発想して問題を乗り越えた、だから私もそれに倣おう、あるいは、あの人がこんなふうに人生も生きられるよと言ってくれたから、私もそれで自信を持てた。そんな他者は皆さんの中にどういうふうに存在しているでしょうか。
 皆さんにとって重要な意味をもった他者について振り返ってみたときに、例えばその中に、皆さんが部落出身者でないとするならば、意味ある他者の中に部落出身者は含まれていたでしょうか。健常者であるとするならば、障害を持つ人で意味ある他者は何人いたでしょう。日本人であるとするならば、意味ある他者の中に外国人は何人いたでしょう。皆さんは公務員という立場です。民間企業で働いてきた人で皆さんにとって意味ある他者は何人ぐらいいるでしょう。というふうに、自分とは異なる文化を持った人、自分とは異なる境遇を生きてきた人、自分とは異なる世界で生きている人、そういう他者をちょっと思い浮かべていただくと、皆さんにとっての意味ある他者にはどういう人がいましたか。部落の人はいますか。障害者はいますか。外国人はいますか。他業種の人はいますか。
 そういうふうに、自分とは異なる他者というものを考えることができるわけですが、そうやって考えると、多くの人の場合、今までいろんな意味ある他者と出会ってきたけれども、それを全部思い浮かべても、結構身近な人ばかりだとか、そこには部落出身の人はいないとか、障害を持つ人もいないとか、外国人はいないとか、そういうことが実は多いわけです。それらの人間関係をつくること自体が、世の中の偏見や差別や、いろんな問題によって断たれたり、あるいは関わりにくくされるという社会だからだと思います。とするならば、豊かな人権文化をつくるということは、そういう自分とは異なる文化、外国人の人、異なる境遇、例えば部落の人、障害を持つ人、あるいは異なる価値観を持つ人、異なる世界を生きている人、異なる関心を持っている人、異なる個性を持つ人、そういうさまざまな他者と積極的にみずから関わりを持って、対等の関係でそういう他者との出会いを通して何か新しい生き方とか考え方を発見していく、そういう生き方が人権文化をつくるということにふさわしいということになります。
 とにかく自分は差別してはいけないんだと身を固くして、結果として、そういうさまざまな被差別の当事者と関わらない生き方をするのではなくて、むしろ積極的な関わりをつくることによって何か新しい気づきを得る。これは、例えば文化や、価値観や、境遇などが自分とは非常に異なる人とこれまで出会ったことによって、こんなことに気づいたとか、こんなことを発見したとか、こんな勇気をもらったとか、そういう経験を持つ人は、ぴんと来ると思います。
 私は、アメリカへ3年ほど、子どもも連れて留学をした時期があります。そのときに、アメリカで出会った黒人の人、白人の人、スペイン系の人、アジア系の人、インディアンの人、あるいはいろんな業種の仕事の人、そういう人たちとの日常の関わりを通して、アメリカ人といっても一様ではなく、いろんな人がいることを知りました。日本人とはまた違う価値観や生活の意味を持って生きている人を知ったから、私は、アメリカから帰ってきてから、そういう物の見方とか人の生き様をもイメージして物を見たり、考えたりできるようになったと思います。それは自分にとって豊かな財産だと思うわけです。
 意味ある他者を、できるだけ異文化とか異なる境遇の人たちの中にいっぱいつくっていくことは、今からでもできることです。どの年齢になったってできることです。そしてまた、子どもたちの教育においては、そういうことをもっと意識的にやれるはずだと思うのです。おもしろい生き方をしている人、非常に勇気ある考え方で生きている人、夢にチャレンジしている人、そんないろんな他者とすてきな出会いを重ねれば重ねるほど、他者と出会うことに臆せず、むしろ他者と出会うということを楽しみにできるような心や態度が育つと思うのです、それは決して「みんな人間をひとしく大事にしなければいけない」と毎日説教して身につくものじゃない。人間はそういう体験を通じて、その体験が自分にとって非常に心地よかったという経験から、学習していくものですから、そういうことを大事にする必要があるんじゃないかというのが2つ目の柱です。他者との共生、多文化が共生するための人権文化です。
 それから、3つ目は自分と社会というつながりです。
 人権とのかかわりで社会とのつながりについて考えたとき、1つ典型的な例を挙げると、世の中で起こっているいろんな人権侵害とか差別という問題を解決するために自分もそういう運動をするということがあげられるでしょう。でも、何もそういう社会運動という形で社会と自分が関わるという関わり方だけが社会とのつながりでもないと思います。皆さんは、奈良県の職員として、公務員という立場で仕事をされながら、その仕事を通じて社会と関わっていらっしゃるわけです。となると、皆さんがやっていらっしゃる仕事を通じて、自分が今生きているこの社会とこんなふうにつながって、自分が考えたり、提案したり、努力したことがこんなふうに実りとなってあらわれていると思えるような生き方ができればできるほど、社会と自分とのつながりが実感できるだろうし、自分が社会にとってどういう値打ちを持って今生きているのかというのがよくわかる。そういうことがわかればわかるほど、人間はもっと自分の持てる力を発揮してみようとか、やれることにチャレンジしてみようと意欲的になれると思うのです。しかし、逆に、自分がそこにいても全く無視されたり、自分が努力して何かやっても、だれにも評価されないというような社会とのつながり方であったとすると、それは必ずやその当事者を無力感に浸らせるだろうし、やれることもやれなくさせるだろうと思うのです。
 そういう意味で人権文化を考えるならば、一人ひとりが社会と自分はこういう意味をもってつながっているんだと思えるような状況をつくり出すことが大切になります。それは何も、仕事の世界だけに限定する必要はないんです。ボランティアという形もあるし、趣味を通じてということもあるし、あるいは自分が社会にとって何かを提案するということであってもいいと思うのですが、少なくとも身近な関係だけじゃなくて、今自分が生きているこの社会と自分が意味ある形でつながっていることも、私は人権文化の3つ目の柱として重要ではないかと思っています。
 今の話をまとめると、反差別ということはもちろん大事であり、差別がある限り、差別に毅然とNOと言うことはもちろん大事だけれども、いつもいつも「差別をしない、させない、許さない」という構えだけで対応していいかというと、そうではないだろう。そこにやはり豊かな人権文化をつくり出すという能動的な参加型の発想が求められる、その参加型の発想を進めるためには、人権を他人事から我が事に転換する必要がある。我が事としてとらえ直すためには、人権を自己実現の問題として、他者との関わりや共生の問題として、社会とのつながり方の問題として、一人ひとりが自分の中でとらえ直す作業が必要ではないかと思っています。今、いろんな自治体の人権施策の考え方とか人権教育の基本理念は、そのような人権のイメージで変わりつつあります。             

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3) 新しいアプローチの事例

『動詞からひろがる人権学習』社会教育用人権学習教材
 次は、「新しいアプローチの事例」を簡単に紹介したいと思います。
 これは、大阪府でつくった社会教育の人権教材の例ですけれども、昨年の夏にちょうど完成して、秋からあちこちで使っている教材です。今年6月には朝日新聞の全国版でも紹介され、紹介された日には、大阪府の情報センターや教育委員会の電話が、1日中問い合わせで大変だったということを聞いていますが、そういう教材があります。これは「動詞からひろがる人権学習」というタイトルをつけてありますが、私も作成に関わりましたので、その立場から、今日はお話をしたいと思います。
 大阪府では、かつても社会教育用の人権啓発教材を毎年作っていました。しかし、その多くは漢字がびっしりで、さまざまな人権関係文書の文言がずらっと並んでいて、最後に連絡先が書いてあるというような難しいもので、ぱっと見て、まあ、おもしろくないわけです。何か必要なときに資料にはなるかもしれないけど、読んでみようと思うほどおもしろくない。でも、そういうものが毎年のようにつくられて、あちこちの教育事務所や市町村に送られる。送られると、担当者は1回は見るでしょうが、おもしろくないから、多分それは棚に置かれてそのままになる。大阪府が追跡調査を行い、実際この冊子がどんなふうに、どれぐらい活用されているかと調べたのですが、とても寂しい結果でした。ただパターン化したやり方でそんな教材をまた作るというのでは、あまりにも能がない。しかも、財政危機の折にそういう発想もないだろう。やっぱり人権教育の改革ということを言うのであれば、教材も全面的に見直そうじゃないかということで、外部の研究者とかNGOで人権に関わっている人とか、ジャーナリストとか、あるいは主婦という立場の人、こんな教材作成に関わってみたいという人をいろいろ集めまして、教材作成に2年越しで取り組んだわけです。
 そこで話し合ったのは、まず取っつきやすく、これだったら使ってみようと思うものにしようということでした。でも、内容を薄めてしまうような取っつきやすさはやめておこうと話し合いました。見かけだけ取っつきやすいというのは、結局中身が伴わない。よく、著名な方を呼んで、たくさんの人を集めて、人権講演会というのが行われますが、それはそれで、その著名な人がおもしろい話をするから、活況はある。けれども、それが人権講演会として一体どういう効果を持ったのか、どういう啓発の成果を上げたのかという物差しで見たときに、何を評価していいかわからないというようなものも一部にあったりしますから、ただ取っつきやすいだけでもだめだろうと思います。でも、従来のように、いろんな人権問題をアラカルト式に並べて説明するというのも能がない。じゃあ、第三の道は何だろうということでいろいろ話をして、最終的に動詞でつなぐというのはどうだろうというアイデアに行き着きました。
 それはこういうことです。この教材では11個の動詞を一応取り上げました。分け合う、伝える、決める、抱え込む、名のる、暮らす、知らせる、参加する、働く、遊ぶ、つながる、以上11個の動詞それぞれに対応して、具体的なエピソードが紹介されています。例えば、今大阪でヒットしている動詞は「抱え込む」です。「抱え込む」という動詞のエピソードは、まだ若いお母さんが子育てを抱え込む中で、気がつくと、自分の子どもを虐待する寸前になっていた。さて、そのお母さんの友達だったら何ができるでしょう、夫だったら、あるいは近所の人だったら、子どもが通っている保育園の先生だったらみたいな感じで、そのエピソードについて深く考えるという、そういう仕掛けです。それを「抱え込む」という動詞でエピソードにしたのです。
 こういうエピソードについていろいろ話し合って、虐待する寸前になった女性にどんな手助けができるか、どういう問題解決が可能かといろいろ考えた後で、参加者に対して「あなたは抱え込むということはありませんか」と聞くわけです。最後にはこうして参加者に返ってくるわけです。皆さんも日頃の仕事などで抱え込んでいる場面はいろいろあるはずなんです。特に管理職の方はきっとあると思います。問題を自分が処理しないといけないと思えば思うほど抱え込んで、余計回らなくなる、そういうことっていっぱいあるわけです。その究極の姿は、自殺です。そういう問題として、参加者が自分とも重ね合わせて話しあうわけです。最初に具体的なエピソードについていろいろな立場を想定して話し合った後ですから、いろんな人が「自分はこんな抱え込みをしていた」と話しはじめます。そしてその話を聞いた別の人が、「あなたはそうですか。私の場合はこんな抱え込みをやっています」と発言したりするわけです。さらに、「私にも似たことがありました。でも、それはこんなふうにしたら解決できるかもしれません」みたいな話になっていって、「抱え込む」という動詞を軸にしながら、他人事と我が事が重なり合っていくわけです。「抱え込む」ということばは日常みんなが使っている言葉であり、普遍的なものです。
 当初用意されたエピソードは、具体的な個別状況です。個別の状況を「抱え込む」という普遍的な動詞を使って一たん考えた後、その動詞を自分の場合に当てはめてみる。そして、自分の個別の状況についても「抱え込む」という普遍的な動詞で語るわけです。すると、それが他の人の「抱え込み」とつながっていく。その結果として、「抱え込む」という動詞をもとに、話し合いが活性化するわけです。現に、いろんなところでこの教材が使われていますが、今までやったいろんな人権研修に比べて、はるかに参加の度合い、熱っぽさ、あるいはみんなが自分のことを話したいという気持ちが積極的です。PTAの研修でもこれを使ったりしているわけです。
 別にこの教材を宣伝するということが目的なのではありませんが、私はその着想のことを強調したいのです。従来は、部落差別問題は部落差別問題として、外国人差別問題は外国人差別問題として、非常に詳しくいっぱい教え込もうとした。ところが、そういうやり方は常に、例えば部落問題は部落問題という世界を超えることはないわけです。ひとつの問題の中だけで完結してしまい、その問題と子どもの人権というのは別問題、女性の権利はまた別問題だというぐあいに、人権を常に個別問題として扱ってきたのを見直そうじゃないかということなんです。この教材の着想は、「抱え込む」をはじめとする日常的な動詞というもので人権問題を横断的に串刺ししてみようということです。つまり、個別のものに普遍という次元を持ち込むという発想なんです。この発想はこれからとても大事だと思うのです。
 冒頭でもふれましたが、グローバリゼーションの時代というのは、境界が揺らいでいく時代です。今までは例えばこの地域独特のものとか、この集団固有のものというように、さまざまな独特のものがローカルな形でいっぱいあったわけです。ところが、グローバリゼーションの時代は、そのローカルなものが崩れて、境界が揺らいでいくわけです。人権の世界でもそうです。さまざまな固有の領域でそれぞれ別個に考えられ、対応されてきたことを、人権というもっと大きな枠組みでとらえ直してみようということです。部落問題に適応するこの考え方を子どもの人権に適用したらどうなるか、そういう発想を大事にしようということです。
 以前、奈良県の人権施策の審議会で私は、奈良県がやっている人権施策に関するいろいろなジャンル別の資料を見せていただいたときに、ふと気がついたことがありました。同和問題に関わるいろんな施策を見ると、ほとんどが「庇護」とか「保護」というカテゴリーであることに気づいたのです。「庇護する」とか「保護する」なんです。ところが、女性施策で出てくるのは、「庇護」とか「保護」というのは一部で、むしろ「自立」とか「参加」がキーワードでした。つまり、人権問題に関わって、ある問題は常に「庇護」とか「保護」の対象として見ているのに、他の問題は「自立」とか「参加」という観点を前面に出している。そこでいろんな人権問題ごとに、それぞれについて「保護」として必要なものは何か、「自立」に必要なものは何か、「参加」に必要なものは何かという観点で評価し直せば、これまで別々に考えられてきた施策の間に整合性が持てるのじゃないですか、と提案したことがありました。その後、奈良県の人権施策を評価するときに、この3つの言葉を用いた評価軸が設定されているのですが、そういう意味でも、私は「個別に普遍を持ち込む」というのは大事だと思うのです。

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4)「全庁的にすすめる人権行政」とは  
・「人権施策」の意味

 最後に「全庁的にすすめる人権行政」についてお話をしたいと思います。
 これは人権を伸長するために、奈良県行政がどういう施策に取り組むかということです。従来的な発想からいうと、人権施策といっても、同和問題に関わる施策をはじめ、女性施策とか、子ども施策とか、障害者施策など、人権施策というものはそれぞれ特定の部署の特別な施策として捉えられてきた傾向があったと思います。ところが、今から必要な人権行政という枠組みは、そういう分断された発想ではなく、すべての県民に関わる施策を、県民の自己実現とか、他者との共生とか社会参加をより積極的に推進するような施策として展開されているかどうかという視点で全庁的に検証し直す、あるいは意味づけ直す、あるいはそういうものとして職員が意識して取り組む、これが私は人権施策という考え方だと思うのです。だから、それは必然的に全庁的なものになります。ある特定領域の施策だけが人権施策なのではないということです。それは税務であれ、環境であれ、土木であれ、保健であれ、ありとあらゆる行政領域について人権文化を豊かにするという発想で考えたときに、どう意味づけられるかというふうに考えるのが、これからの人権施策ではないかと思っています。

 
・人権行政の効果的展開
 これは、学校や社会教育における人権教育も同じです。特定の差別問題に関わる取り組みだけを人権教育や啓発と言うのではなくて、学校教育丸ごと、あるいは学校そのものが人権教育学校となるために何が必要なのか、人権教育学校であるためには、どういう教え方を大事にするのか、どういう児童生徒の参加を大切にするのか、どういう地域との連携を推進するのか、そしてそういうものをトータルに改善することで、人権教育学校と呼べるような存在をつくり出すというのが人権教育の時代の発想だと私は思うのです。限られた特別な時期に、例えば人権週間のときだけ人権の映画を見せて、後はそのまま。あるいは月に1回だけ人権の時間を特設で設けて、その時間だけ差別や人権を語るけれど、後は手つかずということではないということです。ありとあらゆる教科の中で物事を合理的にとらえる目を育てる、自分がいろいろ気づいたことを他者にわかりやすくプレゼンテーションできる表現能力を育てる、対話能力を育てる、あるいは何か問題だと感じたら、その解決策を提案して、行動に移す力を育てる。そういう学校をつくりだすプロセスに学力保障の問題も位置づけるという、これが人権教育学校の論理だと私は思うのです。だから、取ってつけたように人権が何か付属的にあるという時代はもう終わったのではないでしょうか。それはグローバリゼーションの時代にはふさわしくないと思うのです。

 
・アウトソーシング(外部委託)の功罪
 最後に、アウトソーシングの功罪ということです。 奈良県行政においては、民間への委託はまだ大規模にはなっていないと伺っています。私がアウトソーシングということに関心を持つようになったのは、この間、大阪の北摂にある、例えば箕面市とか、池田市とか、あるいは兵庫県で近接している伊丹市とか、そういう自治体のいろいろな人権関係の取り組みに関わってお話をうかがったときに、至るところで行政施策の評価、しかも数値化して評価するという流れが非常に強まっているという印象をもったからです。今後奈良県でも同じような流れになるだろうと思います。
 数値で評価するということは、ある意味ではお金で換算したときに投資効果があるかどうかということを算定して、効果が上がっていると思われるものは残す、しかし、効果が上がっていない、つまりコスト効果の低いものは切り捨てていくという、そういう発想の中で多分広がっているんだと思うのです。箕面市では、6カ年計画で、いかにアウトソーシング(外部委託)を進めるかという計画をホームページでも公開して、アウトソーシングの年次計画を明らかにしています。最終的には財政縮小、人員縮小にむけた提案なんですけれども、そういう話を耳にする機会がとてもふえてきました。
 そんな中で今1つ議論になっているのは、図書館の民間委託という話です。図書館というものを全く民間に委託するという案も含めて、箕面市では外部委託のあり方が検討されています。それに対して、図書館を委託するなどというのは社会教育の責任の放棄である、一切だめだという声もあれば、窓口業務ぐらいだったらいいかもしれないという意見や、いや、もう選書なども含めて、本について専門的なノウハウを持っている民間団体があるのなら、そういうところに全部委託してしまった方が、コストがかからなくて済むじゃないかという意見まであるわけです。こうして今いろんな議論が進行中です。 もう1つの事例は池田市です。かつて行政が、コスト効果が低いということで、一たん閉鎖するとしていた児童文化センターを閉鎖せずに生き残らせる方法として、あるNPOに事業を委託するという話が出てきました。昨年からすでにそのNPOに運営が委託されています。その結果、その施設は、かつて行政がいろんな事業を企画してやっていたときよりも利用者が倍増し、NPOに払っている委託料は、従来コストの半分になったということで、一時期市長が、「お金は半分で効果が倍になった。我々のNPOへの委託はこのように効果を上げています」と宣伝したという経緯がありました。そういう動きが今後しだいに進行しそうな気配を感じています。
 今、財政危機のために人員も削減しないといけない。全体の予算も小さくなっている。その予算を効果的に運営する際に、行政よりもノウハウを持っていて、ある事業を有効に、しかもコストをかけずにやれる民間団体があれば、そこへ丸ごと委託ということを考えてもおかしくないし、現にそういうことを可能にする地方自治に関する法令改正が進行中であると聞いています。
 すると、いったいどこまで委託の対象にできるのかという問題が出てきます。例えば、公民館とか図書館、博物館などが既にその対象に挙がっていますが、大阪では、人権に関わって、ある種の人権NPOに自治体が人権啓発などの事業を委託しているところがあります。だから、人権の分野でも委託(アウトソーシング)ということは起こるわけです。しかも、人権運動を担ってきた運動団体やNGOの中には、そういうNPO的な人権啓発などの実施主体となることで、さらに自分たちの取り組みを社会にアピールしていこうという側面もあります。大阪ではそういう傾向が強いと思います。だから、例えば、今まで自治体がやってきた人権教育や啓発のこの部分は私たちに全部委託してください。そうすればこれだけの予算でやりますよ、という話が仮に出てきたときに、それが予定していた予算よりも少なくて済んで、しかもそうやった方が効果的だと思ったときに、自治体が委託するということがあってもおかしくないわけです。
 でも、そうやって一たん委託したとします。しかし、委託されたNPOにそんなにたくさん人員がいるわけではありません。何かの事情で急に人がいなくなった場合、その運営はどうなるのか。もう今までやっていたようなことができなくなった、じゃあ、もう閉鎖しようとか。ある意味で、一たん委託してしまうと、その後、まったく予想もつかないことも起こり得る。少なくとも行政が運営していれば、そういう突然の変化は起こらないかもしれないのですが、一たん委託するとそういうこともあり得ます。公的責任の問題が発生するのです。しかも、委託のコスト効果は、NPOの職員たちが低賃金で働くということを前提に成り立ってもいるわけです。何十年と経験してきた職員に給与を払うよりも、20代ぐらいの、お金目当てではなく、やりがいのあることをしたいという人たちがNPOにたくさん今、結集しています。子どもと遊びたいとか、子ども向けのいろんな事業を企画するのが好きだという若者がいっぱいいるわけです。すると、そういう人たちに子どもセンターの運営を任すと、コストは明らかに下がるし、熱意はむしろ高まるでしょう。でも、それが10年、20年後にどうなるのかということも見ておかないと、ただ当面安いから委託して、後は知らんでは済まないだろうと思うのです。
 ということで、今日申し上げたいことは、恐らくそういう話は、財政縮小という1つの大きな流れと、それから官民協働への動きがどんどん出てくる。すると、外部委託という話は必然的に生じるわけです。そのときに、奈良県の特に人権施策というものを考えたときに、どこまでを奈良県行政が公的な責任を持って守り、工夫するのか。どの部分は、効果とかコストも考えて民間委託するのかということです。もう一切委託しないという選択はありえないだろうと思いますし、逆に何でも委託していいというのも間違いだと思うのですが、どこに線引きするかということを、いろんな部署でこれから考えなければいけない時代に入ると私は思っています。全庁的な人権行政という時代になればなるほど、すべての職員がそういう問題を考えないといけないことになっていくだろうと思います。
 私は行政の専門ではないのですが、人権とか教育にかかわって大阪の北の方で最近起こっている動向を見ると、今後奈良県の人権行政の独自性を守りながら、でも、古い考えのままでいくという発想ではなくて、従来のやり方を今の時代に合うものにどう主体的に再構築するのか、こういう発想が求められているだろうと思いますので、それを最後に問題提起してお話を終わりたいと思います。
 どうもご清聴ありがとうございました。
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