南淵請安は、渡来系氏族の学問僧。推古天皇16年(608年)、遣隋使・小野妹子に従い、8人の学問僧の1人として派遣された。隋から唐へと時代が移り変わるなか、儒学など大陸の先進の学問を学び、32年の歳月を経て、舒明天皇12年(640年)に帰国。
『日本書紀』によると、帰国後、「周孔の学」(儒教)を教えていた請安のもとに、法興寺の槻の木の下で近づいた中大兄皇子と中臣鎌足が、ともに書物を持って通ったと記されている。二人はその道中、蘇我氏打倒の計画をひそかに練り、その考えはことごとく一致したとある。
645年の「乙巳の変」の後、請安とともに隋・唐へ留学していた高向玄理(たかむこのくろまろ)や僧・旻(みん)は新政権にて国博士(政治顧問としての官名)となるが、請安が関わった形跡はなく、その直前に没したという説もある。
寛文2年(1662年)建立の南淵請安の墓は、明日香村稲渕の高台にひっそりとたたずむ。