645年6月12日。皇極天皇の飛鳥板蓋宮にて、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が天皇に貢物を捧げる儀式が行われようとしていた。『日本書紀』によると、宮殿に赴いた入鹿は、俳優(わざひと)に剣を手放すよう促される。入鹿は用心深い性分だったが、このときは俳優の滑稽な仕草につられ、剣を手渡した。
天皇の前に、古人大兄皇子、入鹿、石川麻呂らが進み出た。柱の陰には、長槍を持った中大兄皇子、弓矢を持った中臣鎌足、そして佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらぎのわかいぬかいのむらじあみた)ら2人の刺客が息を殺して身を潜めている。
石川麻呂が上表文を読み始めるのを合図に、刺客が飛び出して入鹿を斬りつける手はずだった。しかし刺客は入鹿を恐れて飛び出せない。石川麻呂の声が震える。不審がる入鹿に、「帝の前だから畏れ多くて緊張しているのだ」と答える石川麻呂。その瞬間、柱の陰から中大兄皇子が飛び出し、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。
「私に何の罪があるのでしょうか」、血を流してうめく入鹿。「皇子を殺して、天皇の力を衰えさせようとしている」と中大兄皇子。驚いた皇極天皇は奥へと立ち去った。刺客2人がさらに斬りつけ、入鹿はついに息絶えた。
中大兄皇子と中臣鎌足らによる入鹿暗殺。その舞台といわれているのが、現在の伝飛鳥板蓋宮跡だ。発掘調査により掘立柱や石敷き、大井戸跡等が発見され、その後の調査により3時期の宮殿遺構が重なることが確認された。
飛鳥板蓋宮での事態を知った入鹿の父・蝦夷は、甘樫丘の邸宅にたてこもった。蘇我氏と関係の深い東漢氏(やまとのあやうじ)の兵達も集結。一方、中大兄皇子や改革派の豪族達は、飛鳥川を挟んで甘樫丘の東にある法興寺(飛鳥寺)を城として立て籠もり、蘇我氏の反撃に備えた。
6月13日、中大兄皇子は使者を送り、蝦夷についていた兵たちを武装解除させた。孤立した蝦夷は、翌日邸宅に火を放ち自殺。これにより稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代に渡って権力を握っていた蘇我氏の本家は滅亡した。中大兄皇子、中臣鎌足らが蝦夷・入鹿を倒したこのクーデターを、「乙巳(いっし)の変」と呼ぶ。このとき、中大兄皇子20歳、鎌足32歳であった。
現在、飛鳥寺の西には、「入鹿の首塚」と呼ばれる五輪塔があるが、飛鳥板蓋宮で暗殺された入鹿の首が約600m離れたここまで飛んできたと伝えられている。
またこの一帯は、「乙巳の変」以前に、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」の推定地とされている。『日本書紀』によると、「槻の木の広場」で蹴鞠会(けまりえ)が行われたとき、中大兄皇子が勢いよく蹴りすぎて革の靴を飛ばしてしまう。それを見ていた鎌足が皇子の靴を拾って、ひざまずいて恭しく差し出すと、皇子もひざまずいて恭しく靴を受け取った。これを機に、二人は親交を深め、心中を明かし合う関係になったという。
中国の先進文明を積極的に取り入れ、急速に中央集権的国家の体制を整えようとする中大兄皇子は、政治や人々の生活を明確な時刻制によって秩序づけるため、わが国で初めて水時計を造り、それまで曖昧だった人々の時間の観念を一変させた。『日本書紀』には、斉明天皇6年(660年)5月、「皇太子、初めて漏剋(ろこく)を造る。民(おほみたから)をして時を知らしむ」とある。
水時計は、当時の中国の水時計を真似て造られたと考えられている。サイフォンの原理で、一定量の水を垂らすことによって、時を刻む仕組み。いくつかの水槽を階段状に積み、水を補充しながら水位の変動をおさえ、正確に時を計る構造となっていた。
現在、「水落遺跡」は整備され、発掘調査で見つかった25本の柱と導水のための銅管、木樋などの位置が表示され、柱を支える地中の石や基壇周囲の貼石を見ることができる。なお、飛鳥資料館には水時計の模型が展示されている。
中大兄皇子と中臣鎌足による改新政治が進んでゆくが、中大兄皇子は長らく皇子のままだった。中大兄皇子が即位し、天智天皇となるのは668年。改新から実に20年以上も後だった。
即位後しばらくして、鎌足は病に倒れる。『日本書紀』によると、天智天皇は床に伏している鎌足の家へ赴き、自ら見舞った。それから間もなく、鎌足は亡くなる。天皇は鎌足に、朝廷の最高位である大織冠と内大臣の位を授け、藤原の姓を与えた。この藤原の姓は鎌足の子孫へと受け継がれ、平安時代にその絶頂期を迎える藤原氏の系譜につながってゆくこととなる。
藤原氏の祖・鎌足の誕生地として伝わるのが、「小原の里」だ。『万葉集』でもたびたび詠まれるこの地に鎮まる大原神社、その裏手には、鎌足が産湯に使ったとされる井戸がある。また神社すぐ近くにある「大伴夫人の墓」は、鎌足の生母の墓とされる円墳だ。なお、大原神社と「大伴夫人の墓」の前の道は、鎌足を祀る談山神社への表参道とも。
石川麻呂が641年に発願した山田寺は、飛鳥時代を代表する初期仏教寺院の一つだ。発願から2年後に金堂が完成するも、649年に石川麻呂が死去したため造営は中断。その後、石川麻呂の孫の鵜野皇女(うののさららのひめみこ。後の持統天皇)の援助によって本格的に再開され、676年に塔が完成。685年に本尊・丈六仏(じょうろくぶつ)の開眼供養が行われた。後世、その仏頭は現在の興福寺(奈良市)に運ばれ現存する。
山田寺跡には今も、建物の基壇や礎石が残っている。1976年以降の発掘調査によって、山田寺は東西118m、南北185mもの寺域を持つ大寺院であること、また、南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であることなどが明らかになった。
奈良文化財研究所が飛鳥で発掘した遺跡や宮跡の出土品などを展示する飛鳥資料館。その第1展示室には、当コース「3.水落遺跡」の遺構を復原した模型が展示されており、水時計の構造や当時の様子がよくわかるようになっている。
第2展示室には、「5.山田寺跡」から発掘された東回廊を復原展示。東側の柱間3間分の部材を使い、当時の建築構造と規模がわかるように再現されている。
東回廊は、1982年の発掘調査の際、倒壊した状況のまま土中から見つかった。飛鳥時代の大寺院の建築様式を知ることができる貴重な資料として、2007年には国指定の重要文化財に。その後も発掘調査を重ね、東回廊の建築部材が1000点以上確認されている。
『日本書紀』によると、644年11月、蝦夷・入鹿父子は家を甘樫丘に並び建てる。蝦夷の家を「上の宮門(うえのみかど)」、入鹿の家を「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼び、家の外に砦の柵を囲った。門の脇に武器庫を設けて、常時護衛が警護するなど、まるで要塞のような邸宅だったという。
甘樫丘の東の山麓で発掘調査を行ったところ、7世紀中頃の焼けた壁土や炭化した木材などが出土した。この遺跡は「甘樫丘東麓遺跡」と命名され、入鹿の邸宅跡ではないかと話題に。今も発掘調査は続いており、果たして…。
鎌足が飛鳥板蓋宮で入鹿を暗殺したとき、追いすがる入鹿の首を振り切り、ここまで逃げてきたという伝承が残る地。ここまで来れば「もう来ぬだろう」と言ったことから、社の鎮座している地域は「茂古(もうこ)の森」と呼ばれている。
神社の創建は不明だが、「延喜式」神明帳に記される式内社。祭神は気津別命・天児屋根命。明日香村に流れる冬野川の守護神である。
藤原鎌足公をご祭神とする談山神社。『多武峯縁起(とうのみねえんぎ)』によると、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作(くらつくり。蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将(ひき)いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず」とあり、中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が藤の花の盛りの頃、談山神社の本殿裏山で極秘の談合を行ったと伝えている。以来、多武峯は「談峯」「談(うた)い山」「談所が森」などと呼ばれるようになり、「大化の改新 談合の地」の伝承が残った。
鎌足公が669年に没すると、墓は摂津国阿威山(現在の大阪府高槻市)に造られるが、678年、唐より帰国した長男・定慧(じょうえ)が鎌足の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立。妙楽寺と称したという。さらに701年、方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置した。これが談山神社の始まりとされる。
この山麓一帯を本拠としていたのが中臣一族で、天皇家の神を祭ることを職としていた。