優良賞6

大切な命

橿原市立大成中学校 2年 田村 小粋 
    
わたしの家には、二つの姓の表札がかけてあります。今一緒に暮らしている四人家族の姓と、祖父母の姓です。
 体が不自由だったけれど、いつも優しく笑ってくれた祖父は、わたしが六歳の時に亡くなりました。そして、その祖父を長い間介護していた祖母はその三年後に亡くなりました。
 六人家族だった頃、家の中にはいつもだれかがいて、にぎやかでした。母が仕事に行っていたので、学校から帰ると祖母が毎日「おかえり」と待っていてくれました。わたしのために、わたしの好きな果物や野菜を育て、食べさせてくれたり、母におこられて泣いていると、こっそり駄菓子屋へ連れて行ってくれたり・・・どんな時も、わたしをかわいがってくれた祖母は、わたしにとって、かけがえのない大好きな家族でした。
 ある日、祖母が倒れ、いくつかの病院で診てもらうと、とても難しい病気だと分かりました。母は、祖母のことや家のこと、妹のことで、ものすごく忙しくなりました。入院、手術、リハビリ、治療を祖母は二度くり返し、一瞬よくなった時もあったけど、状態はどんどん悪くなり、色んなことが分からなくなり、大切なことを忘れていきました。母は毎日毎日、本当に大変で、疲れていてつらそうだったと、わたしは感じていました。わたしは、少しでも役に立ちたいと祖母や妹のお世話をして過ごしていました。
 そんな大変な生活が始まった中、父と母は家を建てると言いました。しかし、祖母を家において外出することはできず、会社の方も昼は仕事で外出できないので、毎晩夜遅くに来て家の打ち合わせをしていました。そのためもあって、父も母も、さらに忙しくなりました。
 一年が経ち、家が完成しました。その頃、祖母はもう寝たきりになっていて、母のことも、わたしのことも、あまり分からなくなっていました。ある日、そんな祖母を、新しい家に連れていきました。引っ越しはまだ出来ていないので、何もないけど、布団と少しの食べ物を持っていき、家族みんなで泊まりました。その日から少しずつ物を運んで、新しい家で過ごしました。母は祖母に、「新しい家が建ったよ。」と何度も言って、祖母はそのたびに大きく目をあけて天井を見て、ちょっぴり笑っていました。
 だんだん食べることも出来なくなった祖母に、ゆっくりと少しずつスプーンで口に入れてあげるのが、わたしと妹の仕事になりました。本当に時々だけど、一瞬笑ってくれたり、私に向かって「おおきに」と言ってくれたりすると、すごくうれしかったことをはっきり覚えています。
 初めて新しい家に泊まってから三ヶ月後に、祖母は亡くなりました。家ではなく病院で、家族や親しい人に手をにぎってもらってスーッと静かに息が止まって亡くなりました。その時のことを、わたしは一生忘れないと思います。悲しくて悲しくて涙が止まらなかったからです。
 祖母が亡くなった後、新しい表札が届きました。祖母の姓と、わたしたちの姓が、四つ葉のクローバーと一緒になっていて、わたしと妹の顔がくっついたデザインの表札でした。
 父と母は、祖母の命が短いことを知っていたそうです。そして、数年後に予定していた新しい家の計画を急に早めて、どうしても祖母に住ませてあげたかったそうです。本当はもっと元気なうちに見せてあげたかったけど、祖母の目に、楽しみにしていた新しい家が映ったからよかったと、母は言っています。大好きだった祖母がいなくて、今でも思い出して泣きたくなったり、会いたくてたまらなくなったりするけど、このことでわたしは、家族の大切さや愛情を知りました。
 わたしには、大阪にもう一人の祖父と祖母がいます。一緒には住んでいないけど、月に二回ぐらい会えています。いつも優しくして、大好きな二人です。だから、ずっとずっと元気で長生きしてほしいと願っています。
 日本は今、高齢化社会ですが、祖父や祖母のようなお年寄りは、今までずっと家族を守ってきてくれた人だから、わたしたち若い人は、感謝して大切にしないといけないと思います。家族がいないお年寄りもたくさんいると聞きますが、みんなで一緒に守っていくべきだと強く心に感じています。