檜隈寺跡 ひのくまでらあと
記入年月日 2023/10/13
- 所在地
- 明日香村大字桧前
- 区分
- 遺跡 | 社寺跡又は旧境内
- 指定内容
- 国指定史跡
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- 歴史文化資源の概要
- 檜隈寺の創建、沿革についてははっきりしませんが、有力渡来人集団の一つである東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺として知られます。大字檜前に所在し、高取山から北西にのびる舌状台地の先端部に位置しています。現在、於美阿志神社の境内地となっているが、土壇と礎石が残存し、また古瓦が散布することから、この地が檜隈寺の跡であることは古くから知られていました。
『日本書紀』朱鳥元(686)年の条に、軽寺、大窪寺とともに、檜隈寺に「30 年を限り百戸を封ず」という記事のあることから、檜隈寺はこの時期に既に存在していたと考えられます。また発掘調査により出土した瓦から、金堂は 7 世紀後半に建てられ、一時中断をおいて塔・講堂は 7 世紀末に造営されたと推定されます。
伽藍配置は、中門を入ると正面に塔があり、これを囲むように回廊が巡り、回廊の南面には金堂、北面には講堂がとりつきます。金堂は基壇外装が残っておらず不明ですが、講堂は瓦積基壇を採用する特殊なものでした。塔は木造塔です。
奈良時代以降も、檜隈寺は部分的に補修が加えられながら維持されていたとみられ、平城宮や東大寺で用いられた瓦が出土しています。平安時代後期には、講堂の瓦積基壇がくずれ、玉石で補修しています。一方、塔も倒壊しており、心礎上に十三重石塔(於美阿志神社石塔婆)が建てられました。中世には講堂も倒壊し、その跡地に三間の小仏堂が建てられています。この時期に「桧前の道興寺」名がみえ、永正 10 (1513)年の銘を持つ道興寺の梵鐘が見つかっており、道興寺とは檜隈寺の法号とする考えもあります。江戸時代中期には、十三重塔を残すのみとなり、荒廃していたことが本居宣長の『菅笠日記』(1772)から窺うことができます。明治時代に入り道興寺は廃滅し、明治 40(1907)年頃、その旧寺地に、東漢氏の祖とされる阿知使主を祭り、『延喜式』にその名がみえる於美阿志(おみあし)神社が道を隔てた西方より移転し、現在に至っています。
このように檜隈寺は、かつて渡来人が多く住み着いていた古代檜隈地域の中心にあり、現在でも於美阿志神社では渡来人である東漢氏の阿知使主を祀っていることや、檜隈寺が特殊な伽藍配置をしており、基壇化粧が瓦積構造であることなど、東アジアとの交流を色濃く残している寺院といえます。
- 地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
- 檜隈寺跡には於美阿志神社が鎮座しており、地域の氏神として祭祀が行われています。
- 「記紀・万葉集」との関連とその概要
- 『日本書紀』には「百戸を封ず」とあり、すでに飛鳥時代から存在したことが確認できます。
- 当資源と関連する歴史上の人物とその概要
- 周辺からは渡来系氏族の痕跡を示す遺構や遺物が検出され、講堂が渡来系氏族の寺院特有とされる瓦積基壇であることから、この地域を拠点とした東漢氏の氏寺であった可能性が窺えます。
- 当資源と関連する文献史料
- 『日本書紀』
- 当資源と関連する伝承
- 現在の於美阿志神社が東漢氏の先祖である阿知使主を祭神としており、何らかの関係性を示しているものといえます。
- 他地域の関連する歴史文化資源
- 瓦積基壇は近江や山背、河内、摂津等の古代寺院が採用しています。
- 問い合わせ先
- 明日香村教育委員会事務局文化財課
- 電話番号
- 0744-54-5600
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