狛犬って千差万別!
そんな「獅子」たちがあるとき日本に渡ってきます。明確な痕跡はありませんが、遣隋使や遣唐使、渡来人といった大陸と日本との交流の中で日本にも「獅子」が渡ってきたと考えられます。
殊に仏教伝来による影響は大きかったと考えられ、法隆寺に現存する仏像の光背に刻まれた獅子の姿や、五重塔内部の塑像の中の獅子の姿から、そのことを窺い知ることができます。
オリエントで起こった「ライオン」を起源とする心中は、中国で「獅子」という架空の神獣に姿を変えていきます。
それらは、今私たちが目にする「狛犬」とは似ているようで大きく異なるものたちです。
オリエント発祥から中国にいたるまで、「ライオン」や「獅子」たちは、
単独ではなく「対」となる形で表されてきました。
その際には、いわゆる左右対称の向き合う姿、また横並びに正面を向く姿になっていました。
この時大切なのは「シンメトリー」な関係が重要視されていたことです。
左右に向き合うものも、横並びで四面を向くものも対になったものは同じ形をしていたのです。
しかし、インドから中国にわたる頃、「対称性」を重視したものが多い中でも「非対称性」のものが登場するようになってきました。
たとえば雄と雌であったり、口を開けているものと閉じているもの、あるいはまったく別の種類のものを配置するといったことが見受けられるようになってきたのです。
日本においても、「非対称」という姿は大変好まれたようで、早い時代から同じ姿のものではなく異なる姿の物を対で配置するようになったようです。
「非対称性」を生み出していく中で、「獅子」とは違う姿をした「狛犬」が生まれてきたと考えられています。
大陸にもモデルになったとされる架空の霊獣はありますが、日本の「狛犬」と同じ姿をしたものは存在していません。
また「狛犬」は「高麗犬」であり、朝鮮半島を経由して伝わったものだからという説もありますが、朝鮮半島にもモデルとなるような架空の霊獣はあるものの、やはり姿が異なるものであり、そこに同一性を求めるのは少し難しいと考えています。
日本における「獅子・狛犬」は宗教的世界のみではなく、古来「ライオン」が持っていた権力の象徴としての姿を持っていたことは、清涼殿におかれた一対の「獅子・狛犬図」(仁和寺蔵)から窺い知ることができ、天皇の玉体守護という役割が与えられていたものと考えられています。
宮中儀式についての仔細を記した『延喜式』などに、「獅子・狛犬」の色や形、配置などが定められていることからも、そうした役割があったことを裏付けることができます
宮中における「獅子・狛犬」は、そうした玉体守護という大きな役割の他に、室内装飾品・実用品として重宝されるようになります。
御簾や几帳が風に吹かれてめくれ上がることを防ぐ「風鎮(重石)」として、また香炉として用いられ、小型の銅などの金属製のものや陶器のものが多く使われてきました。
『栄花物語』や『宇津保物語』に調度品として用いられた記述があり、その実例となるものは現存していませんが、春日大社古神宝の「狛犬」や「獅子」の姿はそうしたことを窺わせるものがあります。
さて、今わたしたちが目にしている「狛犬」ですが、正確には「獅子・狛犬」と呼びます。上に述べたように、単独の「獅子」は、「獅子」と「狛犬」の対として作られるようになってきました。
一般的に、向かって右側に配置され口を開けたものが「獅子」、向かって左に配置され口を閉じたものが「狛犬」とされます。これは前にも書いた平安時代の宮中儀式を記した『延喜式』などにその記述を見ることができます。ただし現場においては、左右が逆転していたり、伝統的に「狛犬」が存在しない「獅子」のみで構成されている地域などもあります。
また「狛犬」独特の特徴としては「角」が生えているということがありますが、この「角」はやがて形骸化してゆき、いつの間にか無くなってしまっているものも多数存在しています。
そうした「獅子・狛犬」ですが、神社に置かれるようになったのはなぜでしょう?
天皇の玉体守護という役割を持った「獅子・狛犬」が当時の思想の中で、神を守護する役割を自然と担うことになったのはさほど不思議ではないといえるかもしれません。
初期の神社における「獅子・狛犬」は、天皇の傍らに置かれていた「獅子・狛犬」と同様、神様の傍らにあれば良いので、本殿の扉の内側に置かれて人目に触れるものではありませんでした。例えば2016年の春日大社御本殿式年御造替の際に、御本殿の内側に収められていた「獅子・狛犬」四対八体が800年の時を超えて初公開されました。
淸凉殿の内側にあった「獅子・狛犬」はやがて縁側に出てくるようになります。『源氏物語』や『枕草子』などにそうした場面が描かれています。同様に神社本殿の「獅子・狛犬」も扉の内側から外へ出て本殿の縁側に置かれることになって、人目に触れるようになってきたのです。
「獅子・狛犬」は神様を守護するのが役目。
そうなると、少しでも早く、遠くから神様を守護するのが良い。
「獅子・狛犬」は、神社本殿の縁側からさらに外へ、本殿の前に降りてくるようになります。
「獅子・狛犬」はさらに前へ。本殿前から拝殿前へ、さらには参道の途中へ、さらに鳥居前へとどんどん前へ前へとその門番としての性格を強めて行くことになるのです。
こうして、今わたしたちが目にする「獅子・狛犬」の姿ができあがってきました。
当初の「獅子・狛犬」は、室内において調度品としてももちいられることから、銅などの金属製のものや陶器であったものが、縁側に置かれるようになると軽い木製に変わり、雨や陽射しが直接あたる外へ移ると石造のものへと、その素材もだんだんと移り変わっていきました。
神社本殿の神様に近い高みから鳥居の前などまで降りてきて、人目に多く触れるようになってきた「獅子・狛犬」たちが庶民のものとなるのにはさして時間は必要ではありませんでした。
石工たちは競ってその制作の過程でオリジナリティを発揮していくことになります。
仏教における観音や地蔵が庶民のさまざまな願いごとに応じてその姿を変化させていったのと同様に、「獅子・狛犬」もまた庶民の多くの願いごとに応じてその姿を変化させていきます。
雄と雌の姿が夫婦和合、子獅子・子狛犬が子孫繁栄や五穀豊穣といった具合です。
こうした中で、当初「獅子・狛犬」として明瞭に区別されていた姿が失われていくということが起こります。「狛犬」の独自性であった「角」が失われていくのもそうです。対称性をもった「獅子」の対が、非対称性を意識することで生まれた「獅子・狛犬」となり、再びひとつの姿に統合されていく。このとき「獅子」に戻るのではなく、言葉の上で「狛犬」に統合されていくのです。初期には「獅子・狛犬」として存在していたものが、伝言ゲームではないですが、より中央の宮廷文化の「獅子・狛犬」に近かったものから、各地に伝播していく際に、石工たちは実際に目にしたことがないものを、言葉を耳にしただけで想像して作り出していく。単独の「狛犬」たちが登場してくるのです。もちろん「獅子・狛犬」の正しい形もまた正しく伝わって行く場合がありますから、その系譜もしっかり残されながらも、呼び名だけは「狛犬」となっていきます。
こうした流れを受けて、今の実に多様な姿の「狛犬」たちを私たちは目にすることができるのです。