狛犬って千差万別!
奈良の「獅子・狛犬」たちに少し目を向けてみましょう。
ここまでの「狛犬」の歴史でも触れた春日大社の古神宝は、国宝館で拝することができます。
奈良で古い時代のものは、薬師寺鎮守休丘八幡宮のもので、まだ「獅子」から「狛犬」が生まれてくるまでの変遷の途中に造像されており、「獅子」単独の姿に近いながらも、一対で異なる姿を目指していたことが伺える作例となっています。
東大寺の有名な運慶・快慶の手になる仁王像が立つ南大門。
その南大門の仁王像の反対側に、
あまり知られていない「獅子」があります。
東大寺再興にあたって、運慶や快慶たちに造仏させた俊乗坊重源によって、
中国の宋から招かれた工人・伊行末の手になるとされる石造の「獅子」です。
宋の工人の手になるということもあって、
明らかに大陸風の「獅子」の姿をとっており、横並びで正面を見据え、
両者とも口を開けたシンメトリーに近いものとなっています。
手向山八幡宮の本殿には木造の「獅子・狛犬」があります。
向かって右に口を開けた「獅子」、左に角をもって口を閉じた「狛犬」が
配置されます。
現在目にできるのはレプリカで、本物は奈良国立博物館に寄託されています。
この「獅子・狛犬」は「獅子・狛犬」界のスターのような存在で、
日本各地にこの姿をモデルとして作成されたものを見ることができます。
手向山八幡宮の本殿前には石造の「狛犬」があります。
こちらは江戸時代も幕末近く。大阪の石工「杉屋和助」の手になるもので、
「出雲居獅子」という様式を難波風にアレンジしてできあがったものです。
そして、奈良の「獅子・狛犬」を語るときに、避けては通れない
一人の有名な石工として、丹波佐吉がいます。
続いては丹波佐吉の「獅子・狛犬」を紹介していきます。
丹波佐吉は現在の兵庫県朝来市和田山町、但馬の竹田に生を受けました。
文化十三年(1816)のことです。
由緒ある家系に生まれたものの、両親は佐吉が数え四歳の年に他界。孤児になってしまいます。
土地の有力者に引き取られ、ときを置かずして、難波金兵衛伊助という丹波の国の渡り石工に引き取られます。
佐吉には天賦の才があったものか、伊助のもとでめきめきと石工としての技術を磨いていきます。
渡り石工であった伊助が結婚して、丹波大新屋に居を定め「難波屋」という
店を構えると、佐吉は土地の庄屋であった上山孝之進の元で学業も修めるようになっていきます。
こうした経緯もあって、石工という職人でありながら、丹波佐吉に関する記録が上山家によって残されていくことになったのです。
佐吉が二十一歳になったとき、伊助に長男が生まれます。これを機に佐吉は丹波を離れ、各地の石屋を回る、渡りの石工として腕に磨きをかけながら作品を残していきました。
大阪を中心として活躍していた佐吉でしたが、石工仲間の競い合いで、他の石工たちが成しえなかった、
石の尺八を見事に彫り上げました。その音色もまた見事なものであったとされています。そのことが時の帝であった孝明天皇の耳にはいり、石の尺八が献上されると、その孝明天皇から「日本一」の賛辞を賜ったという伝説があります。
そんな佐吉と奈良の縁がこの頃に生まれます。
嘉永五年(1852)、佐吉三十七歳の年、現在の奈良県宇陀市平井の旧家・美登路家から「四国八十八ヶ所」の
写し霊場となる石仏群の制作を依頼されたのです。
この四国八十八ヶ所写し霊場は、佐吉とおよそ十名の弟子たちによって、
三年の歳月をかけ安政二年(1855)に完成しています。現在も「平井大師」として残されている霊場には、
佐吉作である第十九番立江寺の地蔵菩薩、平井大師霊場におけるもっとも中心的場所として作られた第四十五番岩屋寺不動明王など、思わず見る者を唸らせ、ため息をつかせるほどの見事な石像を見ることができます。
佐吉は奈良県内にわかっているだけで十八組の狛犬を残しています。他にも燈籠や石仏など多くの石造物を残しています。
その後も各地に多くの石造物を残した佐吉でしたが、当時流行していた梅毒に冒されてしまいます。
円熟の極みに達していた佐吉でしたが、慶応二年(1866)に現在確認されている最後の作品である不動明王像を、
第二の故郷である丹波大新屋の庄屋であった上山家に残しています。
ある日、ふらりと家を出た佐吉は、そのまま行方を絶ってしまい、いつ、どこでその生涯を終えたのかまったくわかっていません。
台座の裏側に花押と照信作と誇らしく刻まれています。江戸末期とはいえ、職人の中には苗字を持つものも極めて少なかったでしょうし、苗字を持った職人でも公称は控えていたであろう時代に、丹波の佐吉ではなく、村上照信という苗字と名前を刻み、花押までも併せ刻むことができるほどの名人であったことが伺えます。嘉永七年(1854)
宇陀市でもっとも意気盛んであった時代の頂点を迎えていた頃から、晩年のもうひとつの頂点を迎えるまでの、ひとつの転換点と捉えられる作品です。安政六年(1859)
晩年の最高傑作とされる、兵庫県丹波市柏原町の八幡神社の狛犬の制作依頼を受けて、あれこれと模索していた時代の作品となります。万延元年(1860)