深める 明治150年記念 奈良の近代化をささえた人々

明治150年記念講演会(第1回)

日 時
平成30年12月15日14:00~17:00
場 所
奈良県立万葉文化館 企画展示室
出演者
奈良県立大学客員教授(元春日大社権宮司)  岡本彰夫氏
映像作家 保山耕一氏
十津川村村長 更谷慈禧氏
講談師 四代目 玉田玉秀斎氏
プログラム
【基調講演】「明治維新と大和」
【映像上映】「天忠組」
【パネルディスカッション】「明治維新と大和」
【講談】「天忠組」

【基調講演】「明治維新と大和」

奈良県立大学客員教授(元春日大社権宮司)岡本彰夫氏

1.はじめに

天忠組については、①なぜ天忠組が起こったのか、②天忠組の全容、③その後の十津川郷士の働き、という3つの段階に分けると比較的理解しやすいと思う。「②天忠組の全容」については保山氏の映像に、「③その後の十津川郷士の働き」については更谷氏を交えたパネルディスカッションに委ねることとして、ここでは「①なぜ天忠組が起こったのか」についてお話したい。

2.なぜ天忠組が起こったのか(天忠組の背景)

嘉永6年(1853年)の黒船来航を機に、幕府は諸外国への対応を迫られていたが、老中阿部正弘は幕府内で対応策をまとめることができず、外様大名にまで意見を求めた。ここに、幕府の弱体化が明らかになった。その後、幕府は、不平等条約といわれた日米和親条約や日米修好通商条約を結び、安政の大獄により批判者を弾圧した。このような幕府のやり方に対して、尊皇攘夷運動(外国勢力を排除し、天皇中心の新しい国家をつくろうという運動)が活発化し、大老井伊直弼は桜田門外の変により暗殺された。これにより幕府の権威は失墜し、朝廷の権威が伸張した。
文久2年(1862年)、幕府は和宮降嫁により公武合体を図るが、尊皇攘夷派を抑えることはできなかった。同年、京都の寺田屋に集結した尊王攘夷派の薩摩藩士を、公武合体派の島津久光が家臣を遣わして殺害するという事件が起こった(寺田屋の変)。以後、薩摩藩の尊皇攘夷派は影を潜めるが、土佐藩や長州藩を中心にそれに呼応する人々がいた。その関係者が天忠組の変を起こした中心人物になっていくのである。

3.天忠組を理解するための3つの視点

天忠組を理解するためには、「利他」「責任」「再生」という3つ視点が重要である。
まず「利他」というのは、天忠組の志士たちは自らの利益のためではなく、国や人々の利益のために行動したということである。現在の世の中に、そのような行動をとれる人がどれほどいるであろうか。
次に「責任」は、天忠組の変において責任の所在が明確であることである。例えば、十津川郷士野崎主計(のざきかずえ)は十津川郷士の天忠組への参加の責任を一人で負って自害した。これに対して、責任に対する曖昧さが、現在の世の中の問題である。
最後の「再生」は、天忠組の志士たちは人々の心の中に生き続けているということである。例えば、東吉野村では今でも天忠組の志士たちが殺された場所に香華を手向けて偲ばれているし、十津川村には天忠(天誅)踊りが伝承されている。
以上の3つの視点は、現在の世の中にも通じるものがあり、是非このような視点から天忠組を歴史の教訓として活かして欲しい。同時に、天忠組だけに焦点を当てるのではなく、天忠組と戦い命がけで国の秩序を守ろうとした各藩の藩士についても、評価をしなければならないと思う。

【映像上映】天忠組

映像作家 保山耕一氏

映像作品「天忠組」の上映が行われました。上映に先立ち、制作に携わった映像作家保山耕一氏に、制作に至った経緯、本作品にかける思いなどについて、語っていただきました。

(保山氏のお話)
岡本彰夫先生から「自分の命より国のことを思って死んでいった人たちがいる。その人たちのことを歴史の教訓として県民に知ってもらいたい」という熱いメッセージをいただいて、この映像作品を作りました。先生は、新撰組に対しあまりにも知られていない天忠組の事実を多くの人々に知ってもらいたいとの思いがありこれをお受けした訳です。

天忠組の志士たちは懐に辞世の句をしのばせて戦ったといいますが、当時病気だった私も、「この作品は辞世の句である」という意気込みで制作にあたりました。撮影期間は8ヶ月におよび、編集作業と合わせて1年を費やしました。
実は、この映像作品を作るにあたって、天忠組に関する1冊の本も読みませんでした。なぜなら、他人の先入観によって、岡本先生の熱い思いを薄めたくなかったからです。天忠組に対する人々の思いや評価は、現地の方々への聞き取りによって把握していきました。その意味で、リアルな天忠組を描くことができたと思います。

【パネルディスカッション】明治維新と大和

十津川村村長 更谷慈禧氏
奈良県立大学客員教授
(元春日大社権宮司)  岡本彰夫氏
映像作家 保山耕一氏
◆岡本氏(パネルディスカッションの趣旨)
「明治維新と大和」ということで、天忠組の変が明治維新にどのようにつながっていったのかをみていきたい。この点については、十津川郷士の働きなくしては語れないが、十津川郷士については誤解されている面もあるので、その誤解を解く必要がある。そして、現代にもつながる、十津川郷士の精神についても考えてみたい。
◆更谷氏(十津川郷士の真意)
文久3年(1863年)の八月十八日の政変によって天忠組は逆賊となり、十津川郷士は天忠組から離脱するのであるが、この点をとらえて「十津川郷士は中途で裏切った」と言われることがある。しかし、それは誤解である。昨日まで行動を共にしていた天忠組の志士たちが逆賊扱いされ、朝廷から天忠組を討つように命じられた十津川郷士は、板挟みの中で苦悩したに違いない。そして下した決断が、「天忠組には十津川から離れてもらう」というものだった。そうすることで、「よい国・時代をつくろう」という自分たちの思いが通じることを願ったのである。
◆保山氏(地元の人々のエピソード)
十津川郷士に関しては誤解も含めて様々な意見があり、十津川村での聞き取りは難航した。客観的な手引書があれば、誤解もなくなると思う。そのような中で、「私の先祖は吉村寅太郎と意気投合して天忠組に参加し、最後まで戦った」と語ってくれる人もいた。天忠組の伝承がこのような形で残っていることに驚くと同時に、大和の人たちは自分たちのふるさとで起こった出来事をもっと知るべきだと痛感させられた。
◆岡本氏(天忠組と明治維新)
天忠組がしたことは暴挙と言われても仕方がないが、「国を思い、人を思う」という点において、その後の人々の心の支えになる面もあったと思う。天忠組の変の後、生野の変、天狗党の乱、池田屋騒動、蛤御門の変、第二次長州征伐と続いていくが、天忠組は明治維新を加速させたともいわれている。
◆更谷氏(十津川郷士と明治維新)
紀州藩が幕府側として勢力を盛り上げてきた中で、十津川郷士650余名は新政府軍として高野山義挙に参加した。また、戊辰戦争において十津川郷士は北越・東北まで従軍し、明治政府からその功績を讃えられた。このように十津川郷士は、「よき時代、新しい国をつくろう」という思いのもとに行動し、明治維新に大きな影響を与えたといわれている。
◆保山氏(十津川郷士の精神)
十津川郷士野崎主計の辞世の句「討つ人も 討たるる人も 心せよ 同じ御国の 御民なりせば」は、後々語り継がれ、江戸城無血開城にも影響したといわれている。十津川郷士の精神が明治維新まで生き続けて世の中を動かした、というのは間違いのない事実である。そこに注目していただきたい。
◆更谷氏(十津川郷士の精神)
十津川村の人々は、水害などがあっても人に責任を押しつけたりはしない。天忠組の時もそうであったように、自主自立の精神が根付いている。代々受け継がれてきた、一致団結・不撓不屈・質実剛健という「十津川精神」は、今の時代にも必要なことである。
◆岡本氏(まとめ)
十津川村の人々は、水害などがあっても人に責任を押しつけたりはしない。天忠組の時もそうであったように、自主自立の精神が根付いている。代々受け継がれてきた、一致団結・不撓不屈・質実剛健という「十津川精神」は、今の時代にも必要なことである。

【講談】天忠組

講談師 四代目 玉田玉秀斎氏

講談師四代目玉田玉秀斎氏により「天忠組」と題する講談が行われました。

孝明天皇の「大和行幸の詔」にはじまり、天忠組の旗揚げ、五條代官所の襲撃、五條新政府の樹立、八月十八日の政変、十津川郷士の参加、高取進軍、そして吉村寅太郎が高取城を夜襲するまでの経緯が語られました。