深める 明治150年記念 奈良の近代化をささえた人々

~明治150年記念~ 奈良の近代化をささえた人々

明治は遠くなりにけり―――。150年前の出来事は、次第に忘れ去られようとしています。しかし、ここで紹介するのは、今日の我々が決して忘れてはならない偉業を成し遂げ、奈良の近代化をささえた人々です。政治・文化・産業などの分野は違っても、彼らに共通するのは、いずれも熱い想いを持ち続け、それを実行したことです。彼らの存在は、奈良ひいては日本の近代化にとって大きな意味をもつものでした。それでは彼らが活躍した150年前の奈良に時間を戻し、話を始めることにしましょう。

フェノロサ

1886(明治19)年、法隆寺に1人の外国人を代表とする調査使節が現れました。彼らは明治政府の身分証明書を提示し、夢殿の厨子を開扉するよう要求しました。僧侶達は、「この厨子は200年間、開かれたことがない」「これを開くと地震などの災害が起こる」などと異を唱えます。しかし、ついに扉は開かれ、その中には木綿の布で包まれた6尺はあろうかという物体が安置されていました。その包みを解くと、かすかな微笑みをたたえた比類なき仏像が出現しました。この仏像が救世観音像であり、開扉を迫った外国人こそアーネスト・フェノロサ(1853-1908)だったのです。

天誅組

天誅組とは文久3(1863)年に結成された尊王攘夷派の志士たちの集団です。当時の江戸幕府は鎖国から開国に政策を変え外国の勢力が入ってくるようになり、これを脅威ととらえる人々が少なくありませんでした。また、幕府の権力は弱体化しつつあり、幕府に対して批判的な勢力もありました。そのような状況下で、尊王攘夷派(外国勢力を排除し幕府を倒して天皇中心の政治を行おうとする立場)と、公武合体派(朝廷と幕府が協力して政治を行おうとする立場)が対立していました。

土倉 正三郎

土倉庄三郎は、天保11年(1840年)に奈良県吉野郡川上村大滝の林業家の家に生まれました。父から山林経営の手法を学び、伝統の吉野林業を集大成し、日本全国に植林の意義を広め「林業興国」を説きました。

庄三郎は卓越した先見の明の持ち主であり、その行動は林業分野にとどまらず、社会、経済、教育など多方面に及びました。ここでは「日本林業の父」「吉野林業の中興の祖」土倉庄三郎の非凡な功績の数々をご紹介します。

明治150年記念講演会

幕末・明治期の人物の活躍などを振り返り、地域がさらに飛躍するよう
皆様と共に考える講演会を開催しました。