大和民俗公園内には、移築復原された江戸時代に建てられた民家など15棟あります。
そのうち、国指定重要文化財3棟、県指定有形文化財が10棟あります。
一歩、民家へ入ると江戸時代にタイムスリップしたような感覚になります♪
見学無料
公開時間 午前9時から午後4時まで
月曜日(祝日・振替休日のときは次の平日)及び年末年始(12月28日~1月4日)は見学できません
町屋集落
旧臼井家住宅(国指定重要文化財)
高市郡高取町上土佐に所在していた町屋で、建築年代は明らかではないが、構造手法上18世紀前半頃の建築と推定されている。この臼井家は伊勢から当地(高市郡高取町上土佐)に移り、旧高取城大手へ通じる道の北側に屋敷を構え、代々、屋号を「伊勢屋」と称し、藩の公用伝馬の役を務めるかたわら、酒、醤油の販売を営むほか、大年寄をも務めたと伝えられている。
旧鹿沼家住宅(県指定有形文化財)
大和高田市永和町に所在していた町屋で、建築年代は文化9(1812)年の「請取普請状」が現存し、構造手法上からもこの時の建築と判断されます。鹿沼家は、旧横大路(長谷街道)の北側に居を構え、代々米屋を営んでいたと伝えられている。二階に出格子を有するこの主屋は、県内では最も古い例です。
国中集落
旧吉川家住宅(県指定有形文化財)
橿原市中町に所在した自作農の典型的な農家で、庄屋を務めたといわれている。
建築年代は確証を欠くが、当家の過去帳によれば元禄16(1703)年に山ノ坊村より分家した頃の建築と推定されている。
国中の代表的な屋敷構えは、中央に南面して主屋を建て、表か裏かに物干し場をとる。
表側には長屋門を構え、この門の両端から奥へ、コの字形に納屋・稻小屋・米蔵・内蔵離座敷などの建物で取り囲むのが、いわゆる囲造りである。当家もこの囲造りで、物干し場は主屋裏にあった。
旧萩原家住宅(県指定有形文化財)
桜井市下(旧下村)に所在していた農家で、組頭を務めたといわれている。建築年代については史料を欠くが、構造手法上からみて18世紀初期の建築とみられる。
下村は昔、宿場で栄えた桜井から、南方へ約2km離れ、多武峰に向う街道に沿った村落である。
萩原家はこの村の北部にあって、西丘陵の中腹に屋敷を構え、主屋は奈良盆地を望むところに南向きに建てられていた。
旧赤土家離座敷
北葛城郡香芝町(現在の香芝市)狐井で庄屋を務めていたとされる赤土家の離れ座敷。
この建物は見たところ小規模ながら、均整のよくとれた姿を表している。
内部は8畳1室で、本床を備えた構成は素晴らしい。
旧西川家土蔵
天理市二階堂北菅田町にあった農家の土蔵。西川家は奈良~橿原を結ぶ旧街道(中街道)に面して建てられ、江戸時代には「庄屋彦兵衛」と呼ばれ、この地の庄屋を務めた。
この土蔵は当家では高蔵と呼ばれ、衣類・食器などを収納していた。他に米蔵、北蔵があったが先に解体され、この土蔵だけが残っていた。構造は、重要文化財旧臼井家住宅の内蔵と類似し、建築年代は明らかではないが、幕末頃と推定される。
宇陀・東山集落
旧八重川家住宅(県指定有形文化財)
当住宅は山辺郡都祁村(現在の奈良市)大字針に所在していた。代々農業を営んだ家であると伝える。
建築年代を直接示す資料を欠くが、建物の形式手法上からみて19世紀前半頃の建築と思われる。
この住宅は、県内の住宅史を知るうえで標準的間取りを示し、さらに軸部・架構方もこの地方の特色を示す等、資料価値は高い。
旧岩本家住宅(国指定重要文化財)
宇陀郡室生村(現在の宇陀市)黒岩に所在していた。農業・林業を営み、庄屋年寄を務めたと伝えられている。
建築年代については、構造手法上から嘉永年間(1848年~1854年)頃の建築とみられる。
黒岩は室生寺から東南方へ約5キロへだたり、胎ノ川の支流、黒岩川の中程で、谷間の南斜面を利用した村落である。
土間上の奥行に太い梁を半間毎に架け渡すなど、この地方の特色をよく示している。
旧松井家住宅(県指定有形文化財)
※屋根葺き替え工事が終わり、公開を再開しました。
工事期間中、ご迷惑をおかけしました。
吹き替えたばかりの美しい茅葺き屋根をご覧いただけるのは今だけ!是非お越しください。
宇陀郡室生村(現在の宇陀市)上笠間にあった農家。当家の口伝によれば、その昔、代官を務めた子孫と伝えている。
この主屋の建築年代は、解体中に発見された文政13(1830)年3月記の祈祷札や、間取り、構造などから見ても、この文政13年をくだらない頃に建てられたものと認められる。
間仕切り箇所には突き止め溝を多用するほか、居室裏側の床が、簀の子床となるところなど、東部山間の民家の変遷をよく示している。
吉野集落
旧木村家住宅(県指定有形文化財)
吉野郡十津川村大字旭字迫に所在していた山間の家で、農林業を営み、幕末頃には村役を務めたと伝えられている。
建物の建築年代は主屋が文政4(1821)年(棟礼)、納屋および表門は19世紀中頃である。
この家が所在した当地は「迫と背中は見ずに死ぬ」言いならわされたほど山深い峡谷の地である。
また、全国でも最多降雨の一地帯であり、さらに季節によって、風が谷間から猛烈に吹上げる土地柄でもある。
その様な厳しい自然環境のため、県北部の民家とは姿や間取りが大きく異なっている。
この住宅によって、奥吉野地方の当時の生活様式を思い起すことができると共に、主屋の建築当初の規模(間口4間、面積16.5坪)から増築をへて、さらに納屋・表門が建てられ、屋敷構えが拡充してきた過程も併せ示す好資料である。
旧前坊家住宅(県指定有形文化財)
吉野郡吉野町、吉野山の門前町筋にあって金峯山寺仁王門と発心門(銅鳥居)のほぼ中程、大道を北面して屋敷を構え、代々吉野水分神社の神官を勤めたと伝える家である。
建物の建築年代は、主屋(切妻造、一部二階建)、渡廊下及び離座敷の建築年代を示す資料は明かではないが、解体中の各種の部材調査から総合的に判断すれば、主屋の居室、表側四室の柱が経年的にみて18世紀中頃であり、また転入材もあるところから弘化年間(1844年~1847年)頃に主屋大修理・改造を行ない順次、渡廊下及び離座敷を建てたものと思われる。