本歌は、前の歌(五四番歌)の題詞によれば、既に文武(もんむ)天皇に天皇の位を譲っていた持統(じとう)太上天皇が大宝元(七〇一)年九月に紀伊国(現在の和歌山県)に行幸(ぎょうこう)した際に、詠まれたものです。題詞とは、歌の前に置かれ、歌の主題や歌が詠まれた事情や年月、歌を詠んだ人の情報などを記した漢文です。歌を詠んだ調首淡海は、天武元(六七二)年、壬申の乱に舎人(とねり)として天武天皇方につき、その功績から和銅二(七〇九)年に昇叙を受けた人物です。 本歌を一読してまず気づくのは、第二句と第五句(結句)とに同じ語が用いられていることでしょう。同様の例として、『万葉集』には「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟潮干(あゆちかたしほひ)にけらし鶴鳴き渡る」(二七一番歌)などがあります。『古事記』や『日本書紀』にも同じ形式のものが見られることから、短歌の古い形式であろうと言われています。この時五十歳前後だったと思われる淡海にとって、なじみのある形式だったのでしょうか。 歌は、真土山をいつも見ることのできる紀伊国の人が羨(うらや)ましいという気持ちを表明したものです。「あさもよし」は「紀人」にかかる枕詞で、紀伊国は麻の裳(古代の女性がまとったスカート状の着物)の特産地として著名であったことからかかります。そのため、ここでは「麻の裳もよい紀の国の人」と訳しています。歌はそうした紀伊国の人に対して「羨し」、つまり「羨ましい」と述べているのですが、なぜ羨ましいのでしょうか。それが明かされるのが、第三・四句「亦打山行き来と見らむ」です。 「亦打山(真土山)」は大和国(現在の奈良県)と紀伊国の国境、吉野川(紀ノ川)北岸にある低山です。紀伊国の人はその真土山を行ったり来たりして見るのだろう、と現在推量の助動詞「らむ」を用いて想像しています。つまり、「紀伊国の人は真土山をいつも眺めることができるのだろうなあ」と述べているのであり、歌はそのことについて羨ましさを表明しているのです。 真土山は大和から紀伊へ入る際に必ず通過する国境の山として、都の人にもよく知られた景勝地でした。行幸先の土地は言うまでもなく天皇の支配下にあります。したがって、その土地の人を詠み込み、現地の名所を讃(ほ)めることは、その土地の支配者である天皇を讃美することに繋がります。本歌は、紀伊国の名所である真土山を讃めながら、そこを支配している天皇をも讃美した歌と言えるでしょう。 (本文 万葉文化館 榎戸 渉吾)
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