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飯豊天皇埴口丘陵 いいとよてんのうはにくちのおかのみささぎ

記入年月日 2016/11/24

北花内大塚古墳(飯豊陵)南から
所在地
奈良県葛城市北花内
区分
遺跡 | 古墳
指定内容

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
宮内庁によって飯豊天皇埴口丘陵として管理される陵墓です。
考古学的な名称は、北花内大塚古墳。古墳時代(5世紀末~6世紀初頭)に築かれた、全長約90mを測る前方後円墳です。周辺には水をたたえた濠がめぐり、濠の外側には周堤と呼ばれる堤がめぐります。陵墓の保全事業にともなって実施された発掘調査では、人物や動物といった形象埴輪や円筒埴輪のほか、木製品が出土しています。
江戸時代初期、新庄藩がおかれ藩主として桑山氏が入部を果たした際、一時墳丘上に領内の神社がすべて集められるという事業がなされました。その結果、墳丘上部は著しく改変されています。その後、桑山氏が改易となると同時に旧状に戻され、江戸時代末の修復を経て現在の姿となります。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
飯豊天皇は女帝です。その名は、現在の歴史の表舞台には出てきません。しかし、『扶桑略記』(平安時代)などには、第24代天皇として、その名が記されています。この歴史観が現在にも引き継がれていたならば、最初の女帝は推古天皇ではなく飯豊天皇とされていたことでしょう。
御陵の名称などは、周辺地名に大きな影響を与えています。「花内」「三才」といった地名は、それぞれ「埴口」「陵(ミササギ)」の転訛したものと理解できます。また、別名のひとつに「忍海部女王」があり、「忍海角刺宮」にて政務をとったとされるなど、葛城忍海地域ときわめて深い関係をもっていたことがわかります。また明治時代まで存在した南北2km、東西7kmという狭小な忍海郡の成立や、周辺地域の歴史を考える上で、重要な位置をしめています。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
記紀に登場します。
雄略天皇の後を継いだ清寧天皇は、後継者をのこすことなく崩御しました。しかし、雄略天皇即位に関わって有力な皇子たちが命を落としており、次代を担う皇子が不在という事態に陥ります。この時、履中天皇の皇子であった市辺押磐皇子と、葛城蟻臣の娘である荑媛の間に生まれた飯豊女王が忍海角刺宮にて政務をとり、混乱の収拾にあたります。その間において、播磨(兵庫県)にて、忍海部造細目の邸宅にて保護されていた二人の皇子(億計王、弘計王)が、大和へ帰還をはたします。二皇子は、飯豊女王の兄弟です。飯豊女王は位を譲り、弘計王が顕宗天皇として即位します。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
飯豊天皇 飯豊女王、忍海部女王などの別名をもちます。その名称より、葛城忍海地域で養育されたと考えられます。記紀ではそれぞれ書きぶりが異なりますが、清寧天皇から次代の天皇に引き継ぐにあたり、大きな役割を果たした女性と考えられます。
億計王、弘計王 後の仁賢、顕宗天皇。異説もあるが、飯豊女王の兄弟であると考えられています。
清寧天皇 雄略天皇の皇子。後継をのこす前に崩御。
雄略天皇 清寧天皇の父。自らの即位の障壁となる皇子はことごとく排除します。飯豊女王の父、市辺押磐皇子もまた、狩りに誘い出された上で殺害されます。この事件をきっかけに、億計王、弘計王の二人は、播磨に隠されました。
当資源と関連する文献史料
『古事記』、『日本書紀』
当資源と関連する伝承
現在、角刺神社(葛城市忍海)のある場所は、忍海角刺宮の伝承地とされる。
他地域の関連する歴史文化資源
角刺神社(葛城市忍海)
問い合わせ先
葛城市歴史博物館
電話番号
0745-64-1414

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