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太安萬侶墓誌(所在:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館) おおのやすまろぼし

記入年月日 2018/01/01

太安万侶墓誌
所在地
奈良県橿原市畝傍町50-2 橿原考古学研究所附属博物館
区分
考古資料 | 金属製品類
指定内容
国指定重要文化財

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
太安萬侶は、和銅5年(712年)に完成した日本最古の歴史書である『古事記』の撰録者として著名な人物です。太安萬侶の墓は、県庁から直線距離で東南へ約7㎞離れた奈良市此瀬町にあり、昭和54年(1979年)1月に、丘陵の南斜面にある茶畑の改植作業中に偶然発見されました。発見者の適切な通報と、速やかな発掘調査が行われたことで、奈良時代の墳墓としてはとても珍しく、墓の構造や墓誌の出土状況が明確にされた貴重な例となっています。調査時には封土は削られていましたが、墓穴には木炭で覆われた木櫃が納めてあり、その中に火葬された骨と真珠4顆が納められていたようです。木櫃の下には41文字が刻まれた墓誌が置かれていました。この墓誌には太安萬侶の名前のほか、位階や勲位、生前の住所、亡くなった日付などが刻まれています。これによって、墳墓の埋葬者が太安萬侶であり、彼が平城京左京四条四坊に住んでいたことが初めて明らかとなりました。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
太安萬侶墓誌は、太安萬侶が奈良時代に実在したことを証明する物証です。日本の歴史や文化を学ぶうえで欠かすことのできない『古事記』を再認識することができる重要な資料です。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
太安萬侶は『古事記』を撰録したその人です。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
天武天皇は『古事記』の編纂を指示し、28歳の稗田阿礼に「帝皇日継」と「先代旧辞」を読み習わせました。天武天皇は『日本書紀』の編纂にも取り組んでおり、それまでにはなかった本格的な都城の建設をめざすなど、律令国家の建設に力を注いだ人物です。天武天皇の崩御で編纂は中断しましたが、都が平城京に遷った和銅4年(711年)、元明天皇が太安萬侶に『古事記』の撰録を命じ、翌年に『古事記』は完成し献上されました。
当資源と関連する文献史料
『続日本紀』には、太安萬侶の授位に関する内容や、養老7年(723年)7月に民部卿という役職で亡くなったことが記されています。
他地域の関連する歴史文化資源
太安萬侶と同時代の人物の墓誌として、奈良県では宇陀市榛原町で出土した国宝文祢麻呂墓誌、天理市岩屋出土の重要文化財道薬墓誌、五條市東阿田町出土の重要文化財山代真作墓誌、奈良市都祁甲岡町出土の重要文化財小治田安萬侶墓誌、生駒市青山台出土の美努岡萬墓誌があります。
問い合わせ先
橿原考古学研究所附属博物館
電話番号
0744-24-1185

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