奈良偉人伝
行基は668年、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)で生まれました。15歳で出家したのち、仏道修行を経て、民間布教や社会事業に尽力します。後に聖武天皇の帰依を受け、東大寺の大仏造立に奔走、ついには、日本最初の大僧正の位を授けられました。
行基は24歳で受戒し、ほぼ同時期に飛鳥寺に入りました。飛鳥寺は明日香村にあった寺で、594年に蘇我馬子が創建した日本最初の本格的寺院です。行基は、月の半分は山林修行を行い、半分は飛鳥寺で経典学習に励むという生活を、14年間も続けました。その後、故郷に戻って思索を深め、40歳代後半から民間布教や社会事業を行うようになります。
当時の仏教界においては、「僧侶は寺院の中にこもって、仏が国を護ってくれるように祈る」というスタイルが一般的でした。これに対して行基は、寺院から外へ出て、民衆に対する布教を積極的に行っていきました。また、貧しい人々に宿泊と食糧を提供するための布施屋を建設したり、橋や道路、新田開発などの土木工事にも携わりました。
こうした行基のやり方は異端であるとして、朝廷は弾圧に乗り出します。行基のことを「小僧」と呼んで軽蔑したこともあったようです。
朝廷の弾圧に対して、行基側も負けてはいません。寺院や橋、布施屋などをつくる社会事業を行う集団(=行基集団)を形成し、人々の支持を集めていきます。この行基集団は超人的とも思えるスピードで事業を行っていきます。例えば、2年間で15の寺院を建設したこともありました。集団内では分業が進行しており、例えば「設計」「資材と労力の調達」「技術者の確保」などを担当する専門家がグループを編成していました。
行基の活動が民衆に支持されるようになると、朝廷も行基の活動を認めます。そして行基は、聖武天皇から大仏造立という国家の一大プロジェクトを任されます。聖武天皇は詔を出して、「一本の草、一握りの土でも差し出せる者は協力してほしい」と呼びかけました。
行基も全国を行脚して、勧進(寄付)をつのりました。この間、行基は78歳で僧侶の最高位である大僧正に任命されました。
752年、東大寺において大仏開眼会が盛大に行われました。しかし、そこには最大の功労者、行基の姿が見えません。実は、行基はその3年前、82歳でこの世を去っていたのです。開眼会には行基の筆頭弟子である景静(けいせい)が司会者として出席しました。景静が開眼会に際して重要な役割を務めたことは、大仏造営の勧進役を担った行基とその集団の功績がいかに大きかったかを物語っています。
近鉄奈良駅前には行基広場があり、行基菩薩像が出迎えてくれます。この像はある場所を向くように建てられていますが、お分かりですか? 答えは東大寺の大仏殿です。大仏造立に奔走した在りし日の行基の姿が想い浮かびます。