深める 奈良偉人伝

太安万侶

『古事記』を編纂した奈良時代の文官

太安万侶は、現存する日本最古の歴史書である『古事記』を編纂した人物です。平城遷都を行った元明天皇の時代に、文官として平城京左京(現奈良市)に住んでいました。長年、その実在を疑問視する見解もありましたが、昭和54 年に奈良市此瀬町にて墓が発見され、実在の人物であることが明らかになりました。

『古事記』『日本書紀』には「神武天皇の子孫」と記される

太安万侶は古代の豪族多(おお)氏の出身で、安万侶のときに氏の文字を「多」から「太」に改めました。奈良県磯城郡田原本町多(おお)の地で育ったため、今でも当地では親しみを込めて「安万侶さん」と呼ばれています。『古事記』『日本書紀』によれば、多氏の祖は神武天皇の皇子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)であり、その15代目が安万侶にあたるといわれています。田原本町多には、多氏の祖神を祀る「多坐弥志理都比古神社」(おおにいますみしりつひこじんじゃ、通称「多神社」)があり、安万侶もそこに祀られています。

『古事記』を編纂 ― わずか4 ヶ月で完成

『古事記』序文には、安万侶が編纂したとされる古事記の成り立ちについて、次のように記されています。 当時の歴史書として、天皇家の系譜を記した『帝紀』と、朝廷の伝承等を記した『旧辞』がありました。しかし、諸家が持っていたこれらは、諸家によって真実と違うものがあり、また虚偽を加えているものも多く、その誤りを正さなかったら、幾年も経たずに言い伝えの本旨は滅びさってしまいます。そこで、天皇家の支配の正統性を裏づけるため、天武天皇は『帝紀』『旧辞』を修正し(これを「削偽定実」といいます)、稗田阿礼に誦習(単なる暗誦ではなく、諸家においてバラバラであったものを一つに定めることを意味します)させました。711年9月、元明天皇は太安万侶に『古事記』の編纂を命じます。安万侶は類い希なる文才によって、上中下巻からなる『古事記』をわずか4ヶ月で完成させ、712年1月に元明天皇に献上しました。

平城京の文官として活躍 ― 民部卿にまで出世

『続日本紀』によれば、文武に優れていた太安万侶は、平城京の文官として登用され、715年には民部卿(民部省の長官)に就任しました。住まいは平城京左京四条四坊にあり、現在の奈良県立図書情報館の辺りと推測されます。ちなみに、安万侶の父・多品治(おおのほむじ)は大海人皇子(のちの天武天皇)の腹心であり、壬申の乱で功績のあった役人です。安万侶が朝廷で要職につけたのも、父の功績と無縁ではないと考えられます。

奈良市此瀬町にて墓が発見 ― 実在論争に終止符

昭和54(1979)年、橿原考古学研究所により、奈良市此瀬町の茶畑にて太安万侶の墓が発見されました。墓からは青銅製の墓誌(=埋葬者の略歴等を記したもの)が出土し、そこには次のように記されていました。

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳(左京四条四坊の従四位下勲五等である太朝臣安万侶は、 養老七年七月六日に死去し、十二月十五日に埋葬された)
【太安万侶関連年表】

これにより、太安万侶は実在の人物であることが明らかになり、長年続いた実在論争に終止符が打たれました。
なお、太安万侶の墓は国の史跡に指定されており、現地(奈良市此瀬町)には碑文が立てられています。また、墓誌は国の重要文化財の指定を受け、橿原考古学研究所附属博物館に展示されています。

『古事記』の8 年後、720 年に完成した『日本書紀』は、日本初の正史であり、中国の人も読めるように正格な漢文で編纂されました。これに対して『古事記』は正史ではなく、天皇家の支配の正統性を語るものであると考えられています。『日本書紀』と同じく漢字のみですが、日本語で読めるよう一字一字苦心して記されています。現在、現代語訳した『古事記』や関連書籍がたくさん刊行されています。みなさんも、これらの書籍を手にとって、1300 年前の安万侶のメッセージを受けとってみてはいかがでしょうか。

監修:奈良大学文学部国文学科 上野 誠教授