深める 奈良の城

信貴山城

信貴山城の歴史

信貴山城は、天文5年(1536年)に木沢長政により築城されました。標高437mの信貴山頂(雄岳)に位置する戦国期の典型的な山城で、信貴越えの道をおさえることにより、大和支配の拠点として機能しました。城郭の範囲は南北約700m、東西約550mにも及び、奈良県下で最大規模の山城です。
天文11年(1542年)、木沢長政が太平寺の戦いで敗れ、城はいったん焼失しましたが、大和に入国した松永久秀が永禄2年(1559年)に改修し、大規模な城郭を築きました。なかでも、雄岳の北側の尾根には、大規模に造成された五段の削平地が展開し、北端の曲輪は後世「松永屋敷」と呼ばれ、信貴山城のなかでもひときわ重要な部分であったと考えられています。その後、信貴山城は、永禄11年(1568年)に筒井順慶と三好三人衆連合軍により落城、その直後に久秀が奪い返すなど、戦いの舞台となりました。そして、天正5年(1577年)、信長に反抗した久秀は、いわゆる信貴山城の戦いで追い詰められ、信長が欲していた「平蜘蛛茶釜」とともに自爆したとも伝えられています。この時、信貴山城は廃城となりました。
現在、城の建物は残されていませんが、信貴山朝護孫子寺の境内地として破壊を免れ、堀・土塁・門跡・多数の削平地がほぼ完存しています。信貴山城は中世の城郭の姿を留めており、この点が貴重であるとされています。

【信貴山城 略年表】

天文5年(1536年)
木沢長政により築城
永禄2年(1559年)
松永久秀により大規模な改修
永禄11年(1568年)
筒井順慶らにより落城するも、直後に久秀が奪還
天正5年(1577年)
信貴山城の戦いで久秀自害。廃城

信貴山城に関するエピソード

城の中で茶会?

昭和55年(1980年)に信貴山城跡から石臼と茶臼が発見されました。また、永禄3年(1560年)に松永久秀が茶会を開いたという記録があり、これは久秀が信貴山城に入城した翌年に当たります。こうした点から考えると、「信貴山城で茶会が催された」という推測が成り立ちます。また、茶会が催されたということは、信貴山城に茶室があった可能性が高いことを意味します。同じく久秀が拠点とした多聞城でも、永禄年間に茶会の開催が確認されており、いずれにしても、久秀と茶の湯は、切っても切れない関係にあったようです。

信貴山城の絵図

往時の信貴山城の様子をうかがうことができる絵図として、「和州信貴山古城図」(安田家文書、斑鳩町教育委員会所蔵)があります。江戸時代に描かれたものですが、「天守」「松永屋敷」などの記載が見られ、今日使われている曲輪の名称などはこの絵図の記載にならったものです。また、奈良奉行所の玉井定時らが編纂した「庁中漫録(ちょうちゅうまんろく)」(奈良県立図書情報館寄託)の中にも、信貴山城の簡単な絵図が載っています。他にも、斑鳩町で別系統の絵図の存在が確認されています。

信貴山城現地探訪

信貴山城跡石積み(園路未整備につき見学不可)

圧倒的なスケール

信貴山城は城郭自体の規模もさることながら、それを構成する遺構のスケールも、在地の城とは桁違いに大きなものとなっています。特に、松永屋敷跡や広大な削平地を目の当たりにすると、その圧倒的なスケールに驚かされます。また、松永屋敷跡の側には、大規模な切岸(きりぎし。敵兵が安易に登れないように人工的に急にした斜面)が遺されています。このようにスケールの大きな遺構が、山中に良好な状態で現存していることが、信貴山城跡の特徴であるといえます。なお、松永屋敷跡を含む城址一帯は、信貴山城址保全研究会により整備されており、散策しやすくなっています。

地域の人々にとって、信貴山城とは

信貴山雄嶽山頂(空鉢護法)

松永久秀とともに親しまれている存在

平群町のほとんどの方は、「信貴山城イコール松永久秀の城」であることをご存知です。以前、平群町内で行われた歴史講演会で松永久秀のイメージを聞いたところ、多くの人が肯定的なイメージで捉えており、久秀と信貴山城は地域の人々に親しまれている存在であることが、あらためて分かりました。また、子ども達にも信貴山城に親しみをもってもらうため、教育委員会主催の放課後子ども教室(小学3~4年生対象)において、信貴山に登る「歴史散歩」を実施しています。