深める 江戸時代の奈良の殿様

江戸時代の奈良の殿様

郡山藩と柳澤家

柳沢文庫

京都、大坂に近く重要な地であった郡山に、享保9年(1724)、柳澤吉里が甲斐国甲府藩より15万1千2百石で転封します。以降、明治維新まで柳澤氏6代が、郡山藩を治めていました。
柳澤家において初代郡山藩主である吉里は、徳川綱吉の大老格を勤めた柳澤吉保の嫡男です。吉保は、将軍綱吉の影響を受けて、学問に傾倒し、藩邸に文武教場を設置し、藩学を創設します。吉里も、郡山城内に藩校「総稽古所」を設置し、郡山藩の基礎を築きました。その後も、歴代の藩主が一貫して文教政策を講じます。

こうした柳澤家の伝統は、明治26年(1893)、奈良県一中(現、郡山高校)の創立に力を尽くした、最後の6代藩主の柳澤保申まで受け継がれました。
中でも、3代藩主の保光は、安永2年(1773)、21歳で家督を継いで藩主となり38年間にわたり、藩地を治め、中興の租といわれました。幼少より学問をよくし、特に歌学に傾倒しました。将軍家斉の御台所の歌道師範まで勤めています。また、茶の湯は、大名茶人として有名な松江藩主の松平不昧や姫路藩主の酒井宗雅らと友好を深くし「郡山石州流」をおこしました。今でも、茶道をたしなむ人たちの間に、「堯山公」(隠居後の号)の称号で親しまれ、敬慕されています。他にも、能楽好きで、宝生流の能役者日吉安之を国元郡山に招き、宝生流能楽を根づかせ、「郡山宝生」と称されるに至ったり、華道の「甲州流」や盆石の「和州遠山流」など、保光ゆかりの伝統文化が今も受け継がれています。

保光の生きた時代は、天明の大飢饉に象徴される天災、災害があり、財政の危機に見舞われ、倹約と殖産興業が政策の柱でした。特に殖産興業では、赤膚焼の再興と金魚の飼育奨励に力を入れました。豊臣秀長入城時に常滑の陶工を招いたのが始まりの赤膚焼は、遠州七窯の一つに数えられていましたが、廃窯であったのを、茶人の保光が、瀬戸や京都の陶工を招き、奨励、保護して再興を図りました。今でも、奈良に三窯、郡山に二窯が残っています。
また、国替えの時に家臣により持ち込まれた金魚の養殖は、武家屋敷を利用した養殖を家中に奨励し、販路拡大を商人に勧めたことで、安定した収入源となり、その後も、代々引き継がれていきます。

最後の藩主、柳澤保申は嘉永元年(1848)、僅か3歳で藩主となりますが、廃藩置県で、藩知事を免官され神職につきます。一方、旧藩主として、旧士族の授産事業や、就産事業に援助を行い、養蚕・紡績関係の発展に寄与します。また、旧郡山藩領への巡検を行い、旧藩領に住まう住民が暮らしやすいように莫大な私財を投じ、郡山や奈良の近代化に尽力しました。

現在、郡山城跡に、旧柳澤邸を移築した「柳沢文庫」があります。歴代の柳澤家を偲ぶ遺品が残されており、柳澤家を中心に郡山の歴史を知ることが出来ます。