深める 江戸時代の奈良の殿様

江戸時代の奈良の殿様

柳生藩と柳生宗矩

柳生宗矩

柳生宗矩は元亀2年(1571)、柳生宗巌(石舟斎)の五男として大和柳生庄(現奈良市柳生町)に生まれました。父の代に豊臣家により領地を没収され、浪人となりますが、文禄3年(1594)、24歳の時、黒田長政の仲介で徳川家康に仕えることとなりました。
慶長5年(1600)、家康が上杉討伐の軍を起こすと宗矩も従軍します。石田三成らが挙兵をすると、家康の命で柳生に戻り西軍の後方牽制に従事します。その後、関が原の戦にも参戦し、大和柳生庄2千石を取り戻します。

慶長6年(1601)には、徳川秀忠の兵法指南役となり、3千石の旗本となりました。慶長10年(1605)、秀忠が2代将軍になると、宗矩の指導する新陰流は将軍家の剣法「柳生流」として、天下一の称を受け、江戸柳生家を開きます。さらに、元和7年(1621)、徳川家光の兵法指南役となり、新陰流を伝授します。寛永6年(1629)に、従五位下に叙任、但馬守に任官し、寛永9年(1632)に、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中、諸大名の監察を任として、3千石の加増を受けます。そして、寛永17年(1640)、1万石の大名に列し、大和国柳生藩を立藩します。

一介の剣士から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物では、日本の歴史上で、彼ただ一人でありました。宗矩が残した「兵法家伝書」は、「五輪書」とともに近世武道書の2大書とされ、それまでの武術としての剣術を武道にまで昇華させました。

没後、その死を惜しんだ家光の推挙により、従四位下を贈位されました。1万石の身でこの贈位は異例で、それだけ家光の信頼が厚かったことを示します。

現在、奈良市の柳生町には、旧柳生藩の家老屋敷や陣屋跡、沢庵禅師の開山した芳徳寺があり、宗矩をはじめ柳生一族の墓が残っています。