深める 江戸時代の奈良の殿様

江戸時代の奈良の殿様

織田氏の末裔の藩

織田長益

元禄時代、大和国は郡山藩のほかに、3万石以下の7つの小藩がありましたが、その内の3藩が織田信長末流の大名でした。
その1つは、宇陀松山藩(現在の宇陀市大宇陀)です。初代藩主は、織田信雄、信長の次男です。信長の跡目を決める清洲会議で、尾張国など百万石の領主になりますが、豊臣秀吉に勢力をそがれ、大坂の陣で徳川方につくことで、元和元年(1615)、徳川家康から大和国宇陀郡と上野国(現群馬県)小幡に合わせて5万石余の所領を与えられました。信長直系の血筋が、宇陀松山に在ったのです。

しかし、元禄8年(1695)、4代藩主信武の時、藩政内部の対立から重臣らを成敗し、自らも果てた「宇陀崩れ」といわれる事件を起こし、丹波国の柏原に転封となり、宇陀松山藩は廃藩、幕府領になりました。現在、宇陀松山は、重要伝統的建造物保存地区として町並みが残っていますが、織田氏転封の際に、織田に関する施設は全て取り壊されたため、町人町だけが残りました。織田氏の遺構は、春日門跡に残る櫓台や、歴代藩主の菩提寺の徳源寺位です。宇陀川に架かる橋の木孤紋入りの橋柱が、往時を彷彿とさせます。

次は、信長の弟で、茶人の織田有楽斎として知られる織田長益です。関が原の戦いの功労で、大和国内に3万2千石が与えられました。しかし、大坂の陣の時、大坂城に残ったことを、憚り、京都に隠居します。そして、4男の長政と5男の尚長に、自らの所領を1万石ずつ分与しました。元和元年(1615)、長政が戒重藩(現在の桜井市)、尚長が柳本藩(現在の天理市、桜井市他)の藩主となり、明治4年の廃藩置県まで続きます。

戒重藩は、4代目の長清の時に全盛期を迎え、藩校を設立し、織田氏や信長の記録を編纂した織田真記15巻を作りました。7代目の輔宣の時、芝村(現在の桜井市)に移転し、幕府より天領を任され、一時、石高は10万石に匹敵しましたが、百姓一揆等の騒動などにより苦しめられました。芝村陣屋は、現在の織田小学校一帯に築かれていました。小学校の正門横に案内板が建っています。小学校は、平成13年に立て替えられましたが、石垣や土塀を彷彿とさせる作りで、周囲には堀跡も見られます。校章は今も、織田氏の木孤紋を使っています。小学校の近くの建勲神社には、織田信長の座像が設置されています。

陣屋跡の西南には、織田氏の菩提寺の慶田寺があり、その山門は陣屋を移築したものです。
一方、柳本藩は藩祖の尚長が23年かかって藩制の基礎を築き、3代将軍徳川家光参内の時には供奉を勤めました。4代目の秀親の時には御家断絶の危機に見舞われますが、弟に家督を相続し乗り切ります。

しかし、その後は、芝村藩と同様、財政難に苦しみながら幕末を迎えます。柳本藩邸は、現在の柳本小学校一帯に築かれていました。昭和41年まで、一部が柳本小学校として使われていましたが、立て替えに伴い、旧柳本藩邸の表向御殿が、橿原神宮内に移築復元されました。昭和42年、重要文化財「旧織田屋形」に指定され、現在は文華殿として利用されています。
このように、戦国の覇者の信長の命脈が、江戸時代の奈良に存在していたのです。