◆阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) ~天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも~
阿倍仲麻呂は、698年に安倍山(桜井市阿倍)で生まれたと言われています。19歳の時に遣唐留学生として唐に渡り、日本人でありながら超難関の官僚登用試験「科挙(かきょ)」に合格し、その後、唐の高官として昇進していきます。その優秀ぶりは唐の第6代皇帝玄宗の目にもとまりました。 唐朝にとって、なくてはならない存在となった仲麻呂は、玄宗皇帝から帰国を許されませんでしたが、753年に36年ぶりの一時帰国を許されます。その際、故郷の奈良を偲(しの)んで詠んだ和歌が、有名な冒頭の歌です。見送りに来た唐の人々は、この歌を聞いて涙を流したと言われています。 しかし、仲麻呂を乗せた船は難破して安南(あんなん)(現在のベトナム)に漂着してしまいます。その後、ついに帰国することなく、唐で72歳の生涯を終えます。 玄宗皇帝が執務を行っていた「興慶宮(こうけいきゅう)」は、陝西(せんせい)省西安(せい あん)市にあり、現在は公園として整備され、西安市の人々に親しまれています。公園内には、西安市と奈良市の友好提携を記念し、仲麻呂の記念碑が建てられており、そこには冒頭の歌が、刻まれています。 安倍文殊院の仲麻呂堂 西安市興慶宮公園にある阿倍仲麻呂の記念碑
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