出会う 奈良県歴史文化資源データベース

大願寺 だいがんじ

記入年月日 2016/12/16

大願寺石段と山門
所在地
奈良県宇陀市大宇陀拾生736
区分
複合型 | 複数の歴史文化資源を包含する歴史文化資源
指定内容

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
薩埵山大願寺は真言宗御室派の古刹です。聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと伝えられており、本尊十一面観音菩薩は藤原時代後期の神亀元年(724年)徳道上人の作と伝えられています。宇陀松山藩主、織田出雲守高長は本尊の信仰厚く、当山を祈願所としました。また、嫡子織田山城守長頼は京都の鞍馬寺の尊像と同作と伝えられている毘沙門天を勧請し、その子織田出雲守信武は元禄6年(1693年)毘沙門堂を建立しました。その後、明治18年に本堂、宝蔵等全焼という災難に遭い、伝来の仏像も消失しました。本尊十一面観音菩薩は明治の火災で御面相及び御両手を亡くしましたが、後に土中より発見されました。徳道上人が長谷寺建立を誓い、弘法大師が大蔵寺建立の大願を誓われ成就したので、「大願成就」の御利益があると伝えられています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
宇陀松山藩の祈願所としての由緒正しい歴史もさることながら、季節の移ろいと共に表情を変える美しい庭も人々の憩いの場となっています。また、宇陀で薬草料理を食べられる場所としての代名詞的存在でもあります。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
大願寺が位置する大宇陀地域一帯は古くは「阿騎野」と呼ばれ、日本書紀に推古天皇が薬猟をした記述もあるなど、記紀・万葉に縁の深い場所です。柿本人麻呂の秀歌「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」もこの地で詠まれました。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
織田高長・長頼・信武(宇陀松山藩)・・・宇陀松山藩歴代藩主の信仰が厚く、祈願所として守られてきました。
森野好徳・・・森野旧薬園を開いた森野賽郭の孫で、本草学者。境内には好徳の筆塚や、寄進された仏足石があります。
当資源と関連する文献史料
古縁起によれば、聖徳太子41歳の時、橘寺で勝鬘経を講讃するさ中、東北方から霊光があり不思議に思ってその光を慕い来たると、一本の松の元に一人の老翁が立っていました。何者かと太子が問うと、「私はこの地の守護神である。この地は昔から天照大神に縁のある場所で、日本第一の霊地である。太子よ急ぎここに一宇を建て灌仏弘法、四海鎮護の霊場とするべきである。私はずっとここで太子を待っていた。私は本地補陀落世界の教主である」と答えると光と共に南方へ飛び去り、その後に金銅の大悲十一面観音の像が残りました。太子は霊瑞不思議の勝地と思い、蘇我馬子に命じて一宇を建立させしめ松光山天照院大薩埵寺と号し、その尊像を安置したのが当山の始まりであるとされています。
問い合わせ先
大願寺
電話番号
0745-83-0325

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