駒塚古墳 こまづかこふん
記入年月日 2017/03/22
- 所在地
- 奈良県生駒郡斑鳩町東福寺1丁目
- 区分
- 遺跡 | 古墳
- 指定内容
- 町指定史跡
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- 歴史文化資源の概要
- 全長49m以上の前方後円墳で、江戸時代に書かれた『大和名所図会』には、南方にある調子丸古墳や、かつて存在した東福寺とともに描かれています。「駒塚」の名称は、聖徳太子の愛馬である黒駒を葬ったという伝承に由来します。黒駒は甲斐国(山梨県)から聖徳太子に献上された名馬で、三日間で甲斐・信濃(長野県)・越(北陸地方)を巡ったといわれています。古墳の造られた時期は、発掘調査で出土した遺物や墳丘の形態などから4世紀後半頃と考えられています。
- 地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
- 聖徳太子ゆかりの伝承のある古墳の一つであるためです。
- 当資源と関連する歴史上の人物とその概要
- 伴林光平(ともばやし みつひら)
河内国(大阪府)の生まれで、河内や大和の山陵を調査し、『野山のなげき』等を作成しました。文久3(1863)年に天誅組に参加しましたが、幕府軍に攻められ天誅組が壊滅した後に捕えられ、京都で処刑されました。天誅組に参加するまでの3年間は駒塚古墳に居住していました。
- 当資源と関連する文献史料
- 『聖徳太子伝補闕記』、『聖徳太子伝暦』、『和州旧跡幽考』、『大和名所図会』、『野山のなげき』
- 当資源と関連する伝承
- 『聖徳太子伝補闕記』(平安時代前期)では、黒駒の死を悲しんだ聖徳太子が黒駒のために作った墓が、中宮寺の南側にある長大墓であると伝えています。『聖徳太子伝暦』(平安時代中期)には、聖徳太子が亡くなった後、太子に殉死した黒駒を、群臣が中宮寺の南の墓に埋葬したことが記されています。『和州旧跡幽考』(江戸前期)では、「聖徳太子崩じ給ひし日、驪駒悲鳴して水草を喫によしなし、お墓所にいたりて一躍して斃しぬれば群臣あはれがりて墓につかれけり」と伝えています。
また、伴林光平の『野山のなげき』にも「東福寺てふ寺あり。其寺の北辺に駒塚てふ古墓あり…(中略)…厩戸皇子の乗在しし黒駒を葬りし塚なり(後略)」と記されています。
- 他地域の関連する歴史文化資源
- 法隆寺
境内に馬屋があり、黒駒と調子丸の像が祀られています。
- 問い合わせ先
- 斑鳩町文化財活用センター
- 電話番号
- 0745-70-1200
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