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朝拝式 ちょうはいしき

記入年月日 2018/11/03

出仕人参拝
宝物殿前
遺品の兜
所在地
奈良県吉野郡川上村神之谷212
区分
民俗 | 無形民俗文化財
指定内容
村指定無形文化財

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
南北朝時代(1336年~1392年)の後の出来事として、南朝の流れを継ぐ尊義王の子、自天王(尊秀王)と弟の忠義王が、北朝方の赤松家の再興を目指した遺臣により殺害され(長禄の変 長禄元年 1457年)三種の神器の神璽が奪われたことにより、南朝が実質的に滅亡しました。この惨事に、川上郷士は自天王らを襲った赤松家の一党から自天王の御首を取り返し、金剛寺(川上村神之谷)に手厚く葬ったとされます。朝拝式は、若くして悲運の最期を遂げた自天王を偲び、生前に行っていた新年の朝賀大礼を倣い、遺品の兜等(国重要文化財)を自天王と見立てて拝する儀式で、五百数十年川上郷士の末裔により連綿と受け継がれてきたものです。  儀式の内容は、各地区から出仕人と呼ばれる代表が選ばれ、十六八重表菊紋の裃を着用し、自天王神社への参拝、宝物殿の開扉、河野宮陵墓参拝、式典の最後に由来記の奉読を行い、この惨事を伝承するもので、毎年2月5日に川上村神之谷にある自天王神社(金剛寺境内地)で催されます。朝拝式の当初は一か所で行われていたが、江戸時代初期に徳川幕府の命により川上郷内三か所(四保、六保、七保)に分散させられて行われました。昭和56年(1981年)に四保と六保が統合され、さらに平成19年(2007年)には七保も統合され、江戸幕府の干渉で分断されてから実に三百数十年を経て一か所で開催されるようになりました。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
吉野には古くより、弱者は山深い地に身を潜め再生を目指すという史実があり、時の権力に対峙して逃れてきた者を匿うことはその権力にも逆らうことになるにも関わらず、民衆もそれを受け入れ、守るという風土があります。朝拝式も、時代に左右されず単なるイベントや歴史的興味に寄せられたものではなく、五百数十年も連綿と受け継いできた亡き宮を偲ぶ所業がこの地方の民の心意気であり、語ることのできない歴史を現在まで受け継いできた文化です。
また、南朝の後胤を失い滅亡した歴史に関する史跡や伝承が村内に散在しており、後世に引き継いでいきたいと思います。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
徳川家康 (口役銀制度) 土倉庄三郎(吉野林業中興の祖)  
当資源と関連する文献史料
川上村史 群書類従 上月記  南帝由来考(中谷順一) 吉野葛(谷崎潤一郎) 沈黙する伝承(増田 隆)
当資源と関連する伝承
住吉神社(第99代天皇 後亀山天皇の皇子、小倉宮実仁親王の後廟所)、大西助五郎の碑(自天王を襲った赤松一党の頭目を矢で打ち取ったとされる弓の名手)、御首載岩の碑(自天王の首を奪い返し安置した岩)、橘将監の墓(村内に檄を発し赤松一党を打ち取ったとされる)、若年神社 御座磧(初めて朝拝式を行った場所)金剛寺、河野宮御墓(宮内庁陵墓)、三之公御所跡、カクシ平(行宮跡)等々があります。
慶長8年(1603年)徳川家康が吉野地方巡視の際、川上村で朝拝式が行われていることを知り、結果として口役銀の制度が定められました。また、寛永2年(1625年)徳川家光より自天王遺品を三か所に分割しそれぞれで朝拝式を行うよう申し渡しがあり、以来、平成19年(2007年)に一か所で開催するまで三百数十年が経過しました。
他地域の関連する歴史文化資源
自天王遺品「兜・金具・大袖」(国重要文化財)、自天皇遺品「太刀・長刀・胴丸」(村指定文化財)、金剛寺堂宇(村指定文化財)、三之公御所跡及び廟所(村指定文化財)、小倉宮廟所住吉神社(村指定文化財)、河野宮墓(宮内庁陵墓)、北山宮御墓(上北山村龍川寺 宮内庁陵墓)
問い合わせ先
川上村教育委員会事務局
電話番号
0746-52-0144

近くの歴史文化資源

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