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牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 けんごしづかこふん・こしつかごもんこふん

記入年月日 2021/04/16

越塚御門古墳全景
牽牛子塚古墳全景
所在地
高市郡明日香村大字越
区分
遺跡 | 古墳
指定内容
国指定史跡

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
 牽牛子塚古墳と越塚御門古墳は、明日香村大字越に所在する飛鳥時代を代表する終末期古墳です。牽牛子塚古墳は対辺約22mの八角墳で、墳丘裾部には凝灰岩切石が敷き詰められています。この石敷の直上からは大量の凝灰岩切石が出土しており、墳丘全体が凝灰岩切石で装飾されていたことがわかります。埋葬施設は凝灰岩の巨石を使用した南に開口する刳り抜き式横口式石槨で、石槨内には二つの墓室、開口部には二重の閉塞石があります。さらに石槨の外周には直方体の巨石で石槨を保護しています。越塚御門古墳は一辺約10m程度の方墳と考えられます。埋葬施設は石英閃緑岩の巨石を使用した南に開口する刳り抜き式横口式石槨で、墓室は一つあります。築造年代については両古墳ともに7世紀後半頃と考えられますが、牽牛子塚古墳の方が先に造営されたことがわかっています。このように、越智岡の一角に所在する牽牛子塚古墳が飛鳥時代の大王墓(天皇陵)に採用されている八角墳であり、南東側に接して越塚御門古墳が検出されたことは当該期の終末期古墳を考える上で極めて重要な資料です。『日本書紀』天智天皇六年二月条の斉明天皇と間人皇女が埋葬された小市岡上陵とその陵前に大田皇女を葬った記述と合致する極めて重要な文化資源です。また、中国や朝鮮半島の技術や思想を古墳の造営に取り入れつつ、独自の墳丘形態を採用した東アジアで他に例をみない古墳が確立したことを端的に示しています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳は『日本書紀』の記述と考古学の成果との整合性が高いことや、古代からの名称が現在の地名に残されているなど地域と一体となって飛鳥時代を体感することができる歴史文化資源です。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
『日本書紀』天智天皇六年の条には「2月、斉明天皇と間人皇女を合葬した小市岡上両の陵前に大田皇女を埋葬した」と記されており、牽牛子塚古墳(合葬)と越塚御門古墳が、古墳の立地や墳丘形態、埋葬施設や副葬品など総合して、小市岡上陵である蓋然性が高いと考えられます。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
斉明天皇・間人皇女(斉明天皇の娘で孝徳天皇の后)・大田皇女(斉明天皇の孫で天智天皇の娘、持統天皇とは同母姉妹。)斉明天皇は激動する東アジア情勢の中、飛鳥を倭国の政治・経済の中心地として急ピッチで都の整備を押し進め、石と水からなる都を造り上げていきます。大土木工事を成し遂げた天皇の陵としてふさわしい巨石を使った埋葬施設や八角形の墳丘構造など飛鳥時代を牽引した女性達の奥津城と考えられます。
当資源と関連する文献史料
『日本書紀』『続日本紀』
当資源と関連する伝承
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳が立地する明日香村大字越は古代の小市・越智が「越」に転化したものとされています。さらに牽牛子塚古墳の所在する小字は「御前塚」であり、高貴な貴婦人の尊称として「御前」が地名として残っていることから、被葬者は女性であるといった伝承があります。また、越塚御門古墳については小字が「越塚御門」であることから「塚」は牽牛子塚古墳を指し、「御門」は牽牛子塚古墳の「入口」又は「前」を表していることから地元伝承や地名考証、さらに『日本書紀』の記述と一致するなど、その学術的価値は極めて高いといえます。
他地域の関連する歴史文化資源
宮内庁が治定する斉明天皇陵・大田皇女・建王墓(奈良県高市郡高取町大字車木)、斉明天皇の改葬前の陵の候補として鬼の俎・雪隠古墳(明日香村大字平田・野口)、岩屋山古墳(明日香村大字越)が挙げられます。
問い合わせ先
明日香村総合政策課
電話番号
0744-54-2001

掲載されております歴史文化資源の情報は、その歴史文化資源が地域にとって大切であると考えておられる市町村、所有者、地域の方々により作成いただいたものです。
見解・学説等の相違については、ご了承ください。