柳本古墳群や大和古墳群を見ながら、
神代を思わせる古社を抜ける。祈りと願いが交錯する最古の道は、
万葉人の感性をさぞ刺激したことだろう。
人の感情は、今も昔も変わらない。
突然の恋心に戸惑い、
亡き妻を想って涙し、
愛する人との別離に打ちひしがれる—。
歌に込められた古人の心を感じながら、山の辺の道を訪ね歩きたい。
①「玉のほのかに輝くような夕方が訪れると、狩人の弓、弓月ヶ嶽に霞が棚引いている」。弓月ヶ岳は古墳東南にある巻向山の最高峰付近を指すという。三輪山と並び神聖視される山である。作者不詳のこの歌に月の描写はないが、霞む山の頂きに上弦の月(弓張り月)が見えるように思うのはなぜだろうか。
付近には古墳が数多い。全長242mの巨大なこの前方後円墳が崇神陵と考えられるようになったのは幕末になってから。それまでは諸説が錯綜していたという。それはさておき、古墳の緑越しに見上げる山並みの何と美しいことだろう。歌の作者のように、ひととき雑念を払い見とれてみたい。古墳南側からの奈良盆地の眺めも見事だ。
“ちゃんちゃん”と鉦を鳴らし、春の野を神輿がお旅所へと向かう。「祭りはじめはちゃんちゃん祭、祭り納めはおん祭(春日大社)」と言い習わされる大和神社例祭の舞台は、中山大塚古墳の南麓だ。
大和神社の本社はJR長柄駅近く、上ツ道沿いに鎮座する。崇神朝、祭神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は宮中を出て渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)に託された。『日本書紀』はその後、姫が神威に触れてやせ衰えたため、祭祀を引き継いだ経緯を語る。
お旅所周辺の山麓で遷座をくり返したともいう大和神社の本社。この地は神の故郷でもあるのだ。
亡き妻を偲ぶ、いくつかの歌を残した柿本人麻呂。②「引手の山中に愛しい人を置いて山道を行くと、生きた心地もない」。長歌とともに泣き悲しんで詠んだ一首と記される。
引手の山は雨乞いで知られる龍王山とされ、山の辺の道から見る青垣の中では一番高い。ここはまた6~8世紀の群集墳や山城でも有名だ。そこから山の辺の道へと続く尾根上にあるのが継体天皇皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田陵。全長219mの前方後円墳は巨大な側面を見せ、柿畑の奥に優雅に横たわる。ただ、築造時期は4世紀前後とされている。
“衾道”は「引手」にかかる枕詞と考える説がある。ここから見る山にはきっと涙雨が似合うに違いない。
かつて本殿はなく、拝殿奥の石の瑞垣で囲われた「禁足地」に主祭神が埋斎されていた。祭神は禁足地に埋祭されていた神剣・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)である。『日本書紀』などに種々の神宝が納められたと伝わり、物部氏の一族が祭祀した古社としても名高い。
③「石上の布留の神杉のように年をとってしまった私が、また恋に出会うとは」と詠まれた神杉は拝殿西側と参道脇に。作者同様にいずれの杉かは不明だが、恋心の突然さには誰もが思い当たるはず。
武器庫だったとする伝承もあり、武神のイメージが強い。だが、深い緑に包まれた境内は物思いに最適だ。
古来「袖振り」には特別な意味があった。人の魂を呼び寄せる行為とされたのだ。④「乙女たちが袖を振る、布留山に古くからある瑞垣のように、私は長い年月ずっとあなたを思っていました」。柿本人麻呂は、秘めた思いを“魂振り”の信仰に託したのだろうか。
亡き人、恋しい人、人の魂を招き寄せる儀式とされた袖振り。それがいつしか恋のおまじないととらえられるようになったのかもしれない。
石上神宮には特殊神事「鎮魂祭」が伝わる。“鎮魂(たまふり)の神業”によって魂を甦らせる、つまり長寿を願うもの。この地での袖振りは特別かもしれない。