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吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢) よしむらとらたろうのしたぎ(はだじゅばん)

記入年月日 2017/09/05

吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)(背面)
吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)(正面)
所在地
奈良県御所市大字室102番地 御所市文化財事務所
区分
歴史資料 | 文書・書籍・絵図・地図など
指定内容
御所市指定文化財

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
半襦袢。元は広袖であったものを、あえて袖を外して無袖としています。寸法:身丈68cm、肩幅54cm。素材:本体=白晒麻布、通衿=木綿、掛衿=絹。構造:帷子(単)の一般的な仕立ての半襦袢です。2枚の麻布を背縫いして裾は裁ち目を三つ折絎にして始末しています。裾から24.1㎝を脇縫し、それより上部は身八つ口となります。身八つ口丈は13㎝程度と推定されます。袖は外されています。衿は木綿の通衿の上に白絹の掛衿を縫いつけています。背面には「盡忠報國 𡈽浪士 吉村重郷」と墨書されています。平成29年(2017年)3月1日御所市指定文化財に指定されました。御所市教育委員会寄託資料。 「吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)」は、文久3年(1863年)8月26日、天誅組の高取城夜襲時の拠点となり、また、吉村虎太郎が銃創の治療のために一時滞在した重阪村(御所市大字重阪)の庄屋、西尾清右衛門宅に残されたものです。 激動の時代を駆け抜けた、傑出した人物の来歴明らかな遺品であるとともに、実際に鎧下に着用していた襯衣(肌着)の唯一の現存例としても貴重です。 流麗な筆運びの「盡忠報國」の墨書とあわせて本件は、その時代の動勢と思想的背景を彷彿させる歴史資料として極めて重要です。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
天誅組の総裁を務めた吉村虎太郎ですが、遺品は少なく、当地に足跡を残した事を示す物証として貴重です。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
文久3年(1863年)に勃発した天誅組の変で総裁を務めた吉村虎太郎は、8月26日に高取城に夜襲を掛けようとしました。22時頃、薩摩村(高取町)木の辻まで来たとき、警戒に当たっていた高取藩の浦野七兵衛と出くわします。吉村は浦野と鑓で渡り合い、後方では十津川郷士が猟銃で浦野に狙いを定めます。ところが狙いがはずれ、弾は吉村に命中してしまいます。肌襦袢は、その銃創の手当のために重阪村(御所市大字重阪)の庄屋、西尾清右衛門宅に立ち寄った際に西尾家に残されたものと伝えられます。その後も天誅組の変では奮戦しますが、同年9月27日未明、鷲家(わしか)村(現 東吉野村鷲家)で戦死しました。享年27歳。 吉村虎太郎は土佐国高岡郡芳生野村(高知県高岡郡津野町)の庄屋の家に生まれました。諱は重郷、通称虎太郎と称しました。12歳で父の後を継いで各地の庄屋を歴任、農業復興の指導にあたりました。その頃から国学を学び尊皇攘夷思想を持つに至ります。京都に上り後に天誅組の総裁となる中山忠光と共に、天誅組の創設に尽力しました。
当資源と関連する文献史料
天誅組の変に関しては、舟久保藍『実録 天誅組の変』2013年、淡交社 ほか多数
他地域の関連する歴史文化資源
『吉村虎太郎書状』五條市教育委員会寄託資料、『吉村虎太郎陣中書』五條市教育委員会寄託資料、『吉村虎太郎漢詩』財団法人京都養正社蔵、『伝 吉村虎太郎陣中箸』個人蔵
問い合わせ先
御所市教育委員会文化財課
電話番号
0745-60-1608

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