香久山・畝傍山・耳成山、どれが男性で女性なのかについては諸説あります。また、大和三山が神代に恋争いをしたという伝説に、額田王をめぐる天智天皇(中大兄皇子)と弟の天武天皇(大海人皇子)との三角関係を想像する説もあります。額田王は、天武天皇とは結婚し娘をもうけましたが、天智天皇と結婚したという記録は残っていません。
「哭沢の杜」となったのは、この地に泉が湧いていたから。いにしえの人々は、この泉を見て、涙の神と結びつけたのかもしれません。本殿の裏には今も、小さな泉が残っています。
神社の境内の歌碑には、檜隈女王(ひのくまのおおきみ)の歌と刻まれています。『万葉集』には、柿本人麻呂の高市皇子挽歌の反歌として載っていて、加えて檜隈女王の歌という注記があります。
「国見」とは、天皇が国土の繁栄をあらかじめ祝う儀礼行事のこと。見ているのは奈良盆地だけでなく、国土全体。ちなみに古代では、「湖」や「池」も“うみ”と呼ばれていました。
国土にかまどの煙が立つのは、実りが豊かで民衆が食べ物に困っていないから。海に鷗が翔けているのは、餌となる魚がたくさんいるからです。陸と海から国の豊かさを表すこれらの光景を、あくまでも呪的に、“見える!”と言い切ることによって、そのとおり豊作を得られるものと信じられていました。
「私は現世の人」。だから、「これからは二上山を弟と思って見る」と大伯皇女はうたっています。これはつまり、二上山を弟を思い出す“よすが”として見ているということです。
なお、この吉備池の底から、飛鳥時代の寺院跡が見つかりました。基壇の大きさや瓦の年代などから、舒明天皇11年(639)に建てられた「百済大寺」とする説が有力です。1997年には、池の護岸工事に伴う発掘調査で、池の南辺の東と西に、大きな土壇が並ぶことが確認されました。