出会う 奈良県歴史文化資源データベース

袖振山 そでふりやま

記入年月日 2021/08/27

袖振山
所在地
奈良県吉野郡吉野町吉野山
区分
名勝 | 山岳
指定内容
史跡・名勝 吉野山

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
 吉野山の勝手神社南にある山です。壬申の乱の前、大海人皇子が吉野に入られた時に、大海人皇子が吉野山で琴をつま弾いていると、天女が舞い降り、五度袖を振って舞ったといいます。これが、今も宮中で行われている五節舞のはじまりだとされています。この伝承は『吉野拾遺』にみられ、遅くとも室町時代には成立していたものとみられます。ちなみに、『吉野拾遺』は南北朝時代の南朝方のこぼれ話をまとめたような資料です。同書では、袖振山にまつわる以下のような話を掲載しています。
 -後醍醐天皇が吉野山で豊明節会を催したところ、京都の御所での節会とあまりに違うので、そのことを残念がられていました。その時、ふと袖振山が目に入った後醍醐天皇は、「袖かへす天津をとめも思ひいでよよしのの宮の昔がたりを」とお詠みになります。すると、夢でもなく現でもなく、袖振山から白い雲がたなびいて、庭にあった冬枯れの桜のこずえにとどまりました。そして、どこからともなく少女が現れて、「かへしなば雨とやふらむ哀れ知れ天津をとめの袖のけしきを」と詠んで雲に隠れたそうです。
 後醍醐天皇の歌にある「よしのの宮」は飛鳥~奈良時代にあった吉野宮のこと。大海人皇子が吉野宮で過ごしていた時、天女の舞をみて五節の舞の起源となったことは、奈良時代の『続日本紀』から長く語られていました。そのことを思い出し、後醍醐天皇は歌を詠まれたのでしょう。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
袖振山は、江戸時代の地誌や謡曲に多く引用されていて、多くの観光客に紹介する大切な観光資源でした。吉野山の金峯山寺刊行の『金峯山寺史』にも、袖振山について丁寧に解説されています。 同地は、今も史跡名勝吉野山の指定地として、世界遺産の一部にもなっています。今日でもひきつづき、地域の大切な資源として保管されています。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
壬申の乱開戦前の大海人皇子にまつわる、いわばサイドストーリーの舞台です。壬申の乱が始まる前、大海人皇子が吉野に来られたときに、大海人皇子が琴をつまびくと天女が舞い降り、袖を5回ひるがえして舞ったという場所。五節の舞の起源とされています。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
【大海人皇子】天智天皇の弟。天智天皇の没後、壬申の乱に勝利して天武天皇となった。
即位後は官制改革、都の遷都、『古事記』編纂の指示、貨幣の発行、寺社の整備など様々な改革や取り組みを行ったことで知られる。後世の軍記物語でも紹介されるなど、人気が強い歴史上の人物のひとり。
【後醍醐天皇】南朝をひらいた天皇。
当資源と関連する文献史料
大海人皇子の文献としては『古事記』『日本書紀』。 五節の舞については『続日本紀』『年中行事秘抄』『江談抄』『源平盛衰記』など。 袖振山については『吉野拾遺』『古今私秘聞』『大和名所図会』『吉野山独案内』など。
当資源と関連する伝承
壬申の乱の前、大海人皇子が吉野に入られた時に、大海人皇子が吉野山で琴をつま弾いていると、天女が舞い降り、五度袖を振って舞ったといいます。これが、今も宮中で行われている五節舞のはじまりだとされています。
他地域の関連する歴史文化資源
【衣笠山】大海人皇子が岩屋に隠れていた時、天女が舞い降りてこの山に衣をかけたと言います。
【日雄】吉野山にある地名です。吉野山ではこの場所に、吉野宮があったと伝わります。
【桜本坊】吉野山で過ごす大海人皇子が、冬の寒い日に満開のサクラを見たと伝わる場所に建てられた寺院。※現在、創建時とは場所が変わっています。
問い合わせ先
吉野町産業観光課
電話番号
0746-32-3081

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