「部落史の見直し」と部落問題学習

○「部落史の見直し」と部落問題学習(2)…「人権教育の手引き 第57集」より

○「部落史の見直し」と部落問題学習(1)…「人権教育の手引き 第49集」より





 

『同和教育の手びき 第34集 同和教育指導資料集 部落

問題学習の充実をめざして-「部落史の見直し」と教育内容

の創造-』(抄)

                    奈良県教育委員会(平成4年3月20日)

第一章 部落問題学習の充実をめざして

3 「部落史の見直し」と教育内容の創造

はじめに

 ここ数年来、被差別部落の歴史に関する研究は著しい深まりがみられます。各地で次々と新しい歴史資料が発掘され、それに依拠した研究が積み重ねられるようになり、従来の被差別部落史(以下「部落史」とする)に一定の修正を迫る大きな成果をあげてきています。
 一方、同和教育においても、これまでの実践の上にたち、より一層の深化・充実を図るべく、新たな部落史研究の成果に依拠した教育内容を創造していくことの必要性が提起され、学校教育をはじめとした様々な場で盛んな論議が重ねられてきた結果、部落史学習の進め方に関して、一定の「見直し」を行う必要があることについて、ほぼ共通理解が得られるようになってきたのではないかと考えています。
 しかしこれまで、どのような研究成果を導入して、どの部分をどのように見直すのか等について、必ずしも十分な整理がなされてきたとはいい難い状況があります。
 そうした状況を克服していくための手掛かりとして、概括的に以下の諸点について提示していきたいと思います。

 (1)これまでの「部落史」認識について

 まず、被差別部落の歴史が、これまでどのように理解されてきたのかについて、その概要を示せば以下のとおりになると考えています。


  江戸時代の初め、徳川幕府や諸大名は、自己の権力を維持し、安定・強化させるために「士農工商」という身分制度を創り出し、重い年貢や運上・冥加金等の納入に苦しむ「農工商」たちの不満をそらすため、「えた・ひにん」という最下層の被差別身分(賎民)を置いて分断支配を行なった。
 そして、「えた・ひにん」については、田畑を持つことを認めず、河原や低湿地、崖の下など悪条件の土地に強制的に住まわせるとともに、入会権や水利権など生活に必要な権利を持つことを認めなかった。
 さらに、当時の人々に忌避されていた「死牛馬の処理」の業務を強要したため、「えた・ひにん」は、苛酷な差別を受け、低位・悲惨な生活を余儀なくさせられた。
 また、江戸時代の支配政策や身分関係が法的には廃止された明治時代になっても、差別撤廃のための施策や教育が行われなかったため、民衆は相変わらず旧来の差別的な生活慣習と差別意識を維持し続けることになった。
 被差別部落の人々はそうした歴史的経緯によって就職の門戸を閉ざされ、資本主義の発達過程において、労働条件切り下げのための「しずめ石」の役割を担わされることになり、極端な貧困を余儀なくさせられてきた。


というものでした。

 
(2)「見直し」された部落史の概要について

 しかし、上で述べたような被差別部落の歴史に対する理解は、近年になって発掘された歴史資料に基づく研究の結果、修正を必要とする諸点が明らかになってきていますが、その概要を示すと以下のとおりになると考えています。
 まず第一に、被差別部落(江戸時代には被差別部落という呼称は存在せず、「かわた村」・「えた村」などと呼ばれていたが、ここでは便宜上「被差別部落」に統一して表すものとする)の成立時期と事由にかかわる理解についてです。
 これまでは、戦国時代の末から江戸時代の初めにかけて、支配者が自らの権力を維持・安定させるために、被支配者のなかから、特定の人々を特定の場所に住まわせたことが被差別部落の始源になったと考えられてきました。すなわち、「近世政治権力創出論」という考え方です。
 しかし、これまでのところ、織豊政権や江戸幕府が、一般的な身分制度創出にかかわる法令、たとえば、民衆から武器を取り上げた天正16(1588)年の「刀狩り令」や、身分間の移動を禁止した同19(1591)年の「身分統制令」などを打ち出したことは確かめられても、直接的に被差別身分や集落の創出につながる政策を用意したことは全く確認されていません。被差別部落の多くは、これまで明らかになった歴史資料に基づくかぎり、江戸時代以前から存在していたことは確かなのです。
 たとえば、奈良県内にかぎって見た場合でも、ほとんどの被差別部落は、戦国時代までには現在地周辺に集落形成をしていたことが確かめられていますし、いくつかの被差別部落については、その集落形成の時期を鎌倉~室町時代にまで確実に遡及できるのです。
 第二に、経済力の問題、すなわち被差別部落はいつの時代にあっても貧困だったという理解についてです。
これまで被差別部落は、差別によって、職業や住居を制限され、田畑の所持を認められず(主要な生産形態から排除され)、常に貧しい生活を送ることを余儀なくさせられてきた集落と考えられてきました。
 しかし、奈良県内の被差別部落にかぎった場合、ほとんどの村で江戸時代における貧困な実態を確認することはできません。それどころかむしろ、一般農村に比べて、より安定した経済力を持っていたとさえいえるのです。
たとえば、文禄4(1595)年に豊臣秀吉によって実施された検地(いわゆる太閤検地)の際、被差別部落民衆は「かわた」「川田」「皮多」等の肩書を持って登録されることが多くの「太閤検地帳」によって確認されていますが、その所持する田畑は、狭小なものではなく、品等(田畑の質)も特に劣悪なものではなかったのです。
 また、大和郡山藩領の場合、被差別部落はすべて農村部にありましたが、享保9(1724)年の「大和郡山藩郷鑑」によって、被差別部落と一般農村との土地所持の実態を比較した時、一戸あたりの田畑保有面積にほとんど差は見られず、田畑を持たない農民(水呑百姓)の比率はかえって被差別部落の方が少ないほどでした。そして、同領式下郡U村の史料によれば、U村では農業経営・年貢負担に関して一般農村との間に違いがあったことを認めることはできないのです。
 以上のように、江戸時代から明治時代中期ごろまでの被差別部落の多くは、一般農村と同じように、貧富の差を内在させてはいましたが、農業や後に説明する、被差別部落固有の権益である「草場権」から派生する商工業に支えられて、比較的安定した生活を維持していたのです。
 第三には、入会権や水利権など日常生活や農業経営に必要な諸権利が、差別によって剥奪されたという理解についてです。
 このことについても、奈良県内にかぎった場合、これまでそうした事例はまったく確認されていません。むしろ、中世以来続く河川の水利慣行のなかで、誰からも犯されない強固な権利を持っていた葛上郡K村の事例や、一般農民が被差別部落民の所有する池の水を盗水し、処罰されたという吉野郡T村の事例などが確認されています。
 また、一般論としても、被差別部落から入会権や水利権を剥奪したり、その所有を制限すれば、保有する田畑からの年貢確保が困難になるのであり、幕府や諸大名が差別的な意図を持って入会権や水利権を剥奪・制限することはあり得ないことだったのです。
 ただ、周辺に山林があり、また多くの田畑を持ちながらも、入会権や水利権を持たなかったいくつかの被差別部落が存在したことは事実です。しかしそれは、被差別部落にかぎったことではなく、入会・水利慣行の形成時期に、当該の被差別部落が集落形成をしていなかったという歴史的事情などによるものなのであって、差別によって生じた事態ではないのです。入会権や水利権を持たない一般村落も数多く確認できるのです。
 第四には、被差別部落民衆が、幕府や諸大名によって、強制的に河原や低湿地、また崖の下など居住条件の悪い土地に移住させられたという理解についてです。
 まず、江戸時代における強制移住のことですが、奈良県の場合、こうした理解は、葛下郡M村や平群郡K村・式下郡G村をはじめ、多くの被差別部落に残されている移住伝承等によるものだと思われます。しかし、これらの伝承については、少なくとも江戸時代以降においては、実証的にはまったく確認することはできないのです。
 たとえば、葛下郡M村の場合、本村(葛下郡I村)の荒地や耕作者のいなくなった耕地を再開発するため、1670年ごろ現在地に強制的に移住させられたという伝承があります。しかし、1670年ごろのI村の再開発に伴って移住・成立した集落は、M村とは別の「新田村」(出屋敷)のことなのです。
 また、平群郡K村には、戦国時代の末(1570年ごろ)に街道の警固番をさせるため、当時のこの地方の領主によって、添下郡N村から3戸が強制的に移住させられたことにはじまるという伝承があります。しかし、伝えられる移住時期より100年以上も前に、既にK村の現存地周辺に被差別集落が存在していましたし、その集落が中世には近接する大寺院の検断にかかわる職務に従事していたことを確認できるのです。
 そして、式下郡G村もまた江戸時代中期の移住伝承を持ちますが、この村は戦国時代の末には確実に現存地周辺に集落形成をしていたことが確かめられています。
 次に、被差別部落の集落立地条件や環境が一般村落に比べて劣悪であるという理解については、次のように考えられています。
 被差別部落では、安定した経済力に支えられて、とりわけ江戸時代後半から人口急増現象が起こりました。それは、当然のこととして集落規模拡大の必要性をもたらすようになります。しかし、江戸時代においても、屋敷地(宅地)に年貢が賦課されていたため、村として無制限な田畑の宅地化を認めることは年貢納入の上で困難だったのです。
 そのため、新たな宅地は居住するには不適当な場所にあっても、既存集落外の「河原や低湿地、崖の下」など、原則として年貢が賦課されないところに求めざるを得ないことになり、その結果立地条件や環境の悪さという事態をもたらしたのです。
 なお、江戸時代の被差別部落が所有した「草場権」から派生する職務の一つである死牛馬の処理にかかわって、水を確保しやすい場所に集落形成をする必要があったためとも考えられています。
 そして最後に、幕府や諸大名が、被差別部落民衆を「下級刑吏」として民衆弾圧の手先に強制的に使役したり、死牛馬処理など人のいやがる職業を強要したという理解についてです。
 まず、「刑吏」的役務は、「草場権」発生の根幹をなすと考えられている中世の「キヨメ」の職掌に由来するものであり、江戸時代以前の寺社等が持った「検断権」に基づく職務として被差別部落民衆がかかわってきたことは明らかです。ただ、江戸時代において、被差別部落がそうした役務を担任するためには、下級警察権の役務を執行するものとして、幕府や諸大名から改めてその負担を命じられないかぎり不可能なことであり、そのかぎりにおいては「強要」という表現が適切なのですが、部落差別を拡大し、分断支配を貫徹するために、支配者が意図的・差別的に、そうした役務を被差別部落に対して限定的に設定し、或いは強要したことは確認できていません。
 また、死牛馬の処理は、中世に発生した「ケガレ」観念にかかわる「キヨメ」の職能から派生したものであり、仏教等の「宗教的タブー」に触れるものとして、部落差別意識を生み出す大きな要因になりました。しかし、本来は江戸時代の被差別部落が持った「草場権」のごく一部を占める権益にすぎず、「草場権」が江戸時代になって幕府や諸藩から差別によって強要されたという事実は確かめることはできないのです。つまり死牛馬の処理権を含む「草場権」は、被差別部落民衆が歴史的に所有してきた固有の権益だったのです。
 以上五点について、「見直し」内容の概要を整理してきました。被差別部落は、明治時代中期以降、極端な貧困に陥っていったと考えられるのですが、江戸時代から明治初期までは、経済的には安定し、また被支配者として持つ「権利」と「義務」を保障されていたことは明らかなのです。