深める 明治150年記念 奈良の近代化をささえた人々

~明治150年記念~奈良の近代化をささえた人々

フェノロサ

法隆寺夢殿の厨子を開扉させた外国人

1886(明治19)年、法隆寺に1人の外国人を代表とする調査使節が現れました。彼らは明治政府の身分証明書を提示し、夢殿の厨子を開扉するよう要求しました。僧侶達は、「この厨子は200年間、開かれたことがない」「これを開くと地震などの災害が起こる」などと異を唱えます。しかし、ついに扉は開かれ、その中には木綿の布で包まれた6尺はあろうかという物体が安置されていました。その包みを解くと、かすかな微笑みをたたえた比類なき仏像が出現しました。この仏像が救世観音像であり、開扉を迫った外国人こそアーネスト・フェノロサ(1853-1908)だったのです。

【フェノロサ 略年表】

1853(嘉永6)年
アメリカ・マサチューセッツ州セーラムにて生まれる。
1878(明治11)年
来日。東京大学教授に就任。
1886(明治19)年
法隆寺夢殿の厨子を開扉させる。
1887(明治20)年
東京美術学校設立(1890年 副校長に就任)
1888(明治21)年
奈良市で講演「奈良の諸君に告ぐ」を行う。
1908(明治41)年
ロンドンにて死去。

廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる奈良へ

1878(明治11)年に来日したフェノロサは、日本美術に関心を持ち、岡倉天心らとともに何度も奈良を訪れました。特に飛鳥・天平仏に深い感動を覚え、この邂逅を「一生の最快事なり」と語ったように、奈良には特別の思いがあったようです。
当時の奈良は、1868(明治元)年に明治政府が出した神仏分離令をきっかけとして、いわゆる廃仏毀釈の運動が活発となっていました。その結果、多くの仏教建築、仏像、仏画などが破壊され、興福寺の五重塔も売りに出されてもう少しで解体されそうになりました。
明治政府から関西古社寺調査団の顧問に抜擢されたフェノロサは、文化財の保護を強く訴え、数々の文化財を破壊から守りました。そして、フェノロサの調査が基となって、1897(明治30)年には古社寺保存法(現在の文化財保護法)が制定されました。

奈良の寺社に寄付、奈良市民に演説

浄教寺と立て看板

フェノロサに関して、奈良における最も有名なエピソードは、冒頭で紹介したように、法隆寺(斑鳩町)夢殿の厨子を開扉させ、救世観音像の存在を明らかにしたことです。
その他にも、奈良の寺社を訪問した際に文化財の保存状態を観察し、修復を必要とする場合には修繕料の名目で寄付をしました。この点に関しては、聖林寺(桜井市)の十一面観音立像を納める厨子が老朽化しているのに気づき、修繕料を寄付したというエピソードが残されています。
また、1888(明治21)年には浄教寺(奈良市)で「奈良の諸君に告ぐ」と題する歴史的講演を行い、奈良の人々に文化財保護の重要性を訴えました。この講演には市民500人が参加し、熱心に聞き入ったと伝えられています。

ロンドンで急逝、遺骨は日本へ

フェノロサの墓所

1908(明治41)年、フェノロサはロンドンで急逝しました。55歳でした。その報は直ちに日本にも伝えられ、「日本美術界の恩人の死」として新聞各紙は大きく取り上げました。また、死から2ヶ月後には、上野の寛永寺で追悼法要が営まれました。このことからも、フェノロサがいかに日本文化に貢献し、当時の人々に慕われていたかを、うかがい知ることができます。フェノロサの遺骨は、彼が受戒した三井寺 法明院(滋賀県大津市)に移送され、現在でもそこに納められています。

フェノロサの功績

前述のように、明治初期における廃仏毀釈の風潮のなかで、日本の文化財は壊滅の危機にさらされました。その中から、数々の文化財を救ったのがフェノロサでした。それとともに、奈良での演説にみられるように、当時の日本人に日本文化の崇高さや重要性を説き、自信と勇気を与えたのもフェノロサでした。このように物心両面において日本文化の救世主となった人物が、外国人であったという事実は、まことに興味深いことです。
今日、奈良には多くの文化財が残されており、我々が鑑賞することができるのも、フェノロサの活躍によるところが大きいといえます。

監修 : 日本フェノロサ学会 事務局長 新関伸也 (滋賀大学教育学部 教授)