深める 明治150年記念 奈良の近代化をささえた人々

~明治150年記念~奈良の近代化をささえた人々

天誅組

林業分野とどまらず、多方面で活躍した「日本林業の父」「吉野林業の中興の祖」

天誅組とは文久3(1863)年に結成された尊王攘夷派の志士たちの集団です。当時の江戸幕府は鎖国から開国に政策を変え外国の勢力が入ってくるようになり、これを脅威ととらえる人々が少なくありませんでした。また、幕府の権力は弱体化しつつあり、幕府に対して批判的な勢力もありました。そのような状況下で、尊王攘夷派(外国勢力を排除し幕府を倒して天皇中心の政治を行おうとする立場)と、公武合体派(朝廷と幕府が協力して政治を行おうとする立場)が対立していました。

文久3年8月13日、孝明天皇が攘夷祈願のために大和に行幸されることが決まりました。同14日、自ら「天皇行幸の御先鋒」と称する尊王攘夷派の志士が、京都東山の方広寺に集まり、公卿の中山忠光を主将に約40名で結成したのがいわゆる天誅組です。天誅組は伏見から淀川を下りました。

天誅組の主将・総裁※

主将
中山忠光公卿
総裁
吉村寅太郎土佐藩出身 松本奎堂刈谷藩出身 藤本鉄石岡山藩出身

※天誅組が設置した五條御政府における職制(役割)を表す名称。
主将は総大将、総裁は全体のとりまとめ役を意味する。

明治維新の魁(さきがけ)は大和から

五條代官所跡

天誅組は大和の五條で尊王攘夷派として最初の武装蜂起を実行します。すなわち、文久3年8月17日、河内(富田林・河内長野)で同志を加えて総勢70~80人となった天誅組は、五條代官所(現五條市)を襲撃しました。代官所は焼討ちされ代官鈴木源内ら5人が斬首されました。そして、近くの櫻井寺を本陣として「五條御政府」と称する政治機関を設置し、幕府による統治排除を宣言しました。これは明治維新(1868年)の5年前の出来事ですが、まさに明治維新の魁となるものであり五條市が明治維新発祥の地といわれるゆえんです。なお、天誅組が襲撃の対象に五條代官所を選んだ理由は複数ありますが、当時の五條代官所が奈良県南部の幕府領(約7万石)支配の拠点であったことも一つにあげられます。

1日にして逆賊に

天誅組天辻本陣跡(五條市大塔町)

五條代官所襲撃の翌日、京都では「八月十八日の政変」が起こりました。これは、会津藩・薩摩藩と公武合体派の公家が画策して、尊王攘夷派の公家と長州藩兵を京都から追放した事件です。当然、尊王攘夷派が計画した孝明天皇の大和行幸も取りやめとなりました。これにより、天誅組は挙兵から一日にして逆賊となり幕府の追討軍に追われる立場になりました。吉村虎太郎らは協議のうえ徹底抗戦する方針を固めます。天誅組は、十津川郷で兵を募り追討軍に備えるという作戦に出ましたが、逆賊という立場ゆえに募兵は思うように進みませんでした。しかし、勤王精神に篤い十津川郷、同年8月24日、1,000人近くの十津川郷士が天辻峠(現五條市大塔町)に集まりました。

高取城奪取に失敗、そして敗走

天誅組終焉之地碑(東吉野村)

8月26日、天誅組は高取城(現高市郡高取町)を攻撃しますが、高取藩が用意した大砲の反撃によりあえなく敗退。同夜、吉村虎太郎ら決死隊が再び夜襲をかけましたが、これも失敗に終わり、天誅組は再び天辻峠に退却しました。さらに9月14日、紀州藩・藤堂藩の追討軍が迫ってきたため天誅組は本陣に火を放って放棄。その後、十津川村の武蔵・風屋・上野地などに本陣を転々と移しました。規模を拡大する幕府側追討軍の前に戦況は好転せず、9月24日、鷲家口(現東吉野村)で天誅組はほぼ壊滅しました。挙兵からわずか1ヶ月あまりのことでした。天誅組の挙兵にかかわった3人の総裁は相次いで戦死、東吉野村を脱出した隊士たちも宇陀・桜井・天理・生駒などで捕縛・討死にしました。また、かろうじて長州へ逃れた7人の隊士のうち主将中山忠光は翌元治元年11月に長州で暗殺されました。
余談ですが、中山忠光と長州での側女の間に女の子(後の嵯峨侯爵夫人、仲子)が生まれました。仲子の孫「浩」は昭和12(1937)年4月、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟溥傑と結婚しましたが、時代の波に翻弄され中国東北部(旧満州)を転々としたことから、「流転の王妃」といわれました。昭和63(1988)年、浩の遺言により、下関市綾羅木にある中山神社の境内に「愛新覚羅社」が造営され、夫・溥傑、浩、長女・慧生の3人が永遠の眠りについています。

天誅組の志

天誅義士記念碑(東吉野村)

すでに述べたように、天誅組の挙兵は、尊王攘夷派による初の武装蜂起であり、5年後の明治維新の魁となるものでした。志士たちは、私利私欲のためではなく、国を憂い、国を想う気持ちがあったからこそ立ち上がったのでしょう。
東吉野村には、討死にした三総裁・吉村虎太郎、松本奎堂、藤本鉄石の辞世の碑があります。
「吉野山風に乱るるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ」(吉村虎太郎)
「君がためみまかりにきと世の人に 語りつぎてよ峰の松風」(松本奎堂)
「雲を踏み岩をさくみしもののふの よろひの袖に紅葉かつ散る」(藤本鉄石)

天誅組ゆかりの場所

天誅組菩提寺宝泉寺(東吉野村)

天誅組が襲撃した五條代官所は現在の五條市役所であり、庁舎前には代官所跡を示す石碑が建てられています。また、五條本陣を構えた場所は櫻井寺の旧本堂です。同市大塔町の天辻峠には天誅組本陣遺趾(維新歴史公園)があります。そして、十津川村には上野地・風屋などの本陣跡、往時の十津川郷士の姿を伝える「歴史民俗資料館」があります。東吉野村には戦死した志士たちを祀る墳墓、「天誅組終焉之地」の碑、15人の天誅組志士戦死の地にも石碑や説明板が建てられています。ほかに、下北山村、上北山村、川上村などにも天誅組の遺跡・史跡が数多く残されており、天誅組の足跡をたどることができます。
このように、天誅組挙兵のエピソードは、150年たった今でも人々に語り継がれており、多くの幕末史ファンの心をひきつけています。

吉村虎太郎の肌襦袢(はだじゅばん)が、御所市の文化財に

吉村虎太郎が戦いの最中に着用した肌襦袢(下着)が、御所市の庄屋の子孫に伝わっています。(現在は御所市に寄託)負傷した虎太郎が庄屋宅で手当てを受けた際に残したものだといわれています。肌襦袢には「盡忠報國(じんちゅうほうこく)」(君主に忠義をつくし、国家に報いること)の文字も見え、虎太郎のこの戦いに賭ける決意がうかがえます。時代の動勢と思想的背景を彷彿させる歴史資料として極めて重要であるとして、平成29(2017)年に御所市の文化財に指定されました。

監修: 元東吉野村教育長 阪本基義