深める 明治150年記念 奈良の近代化をささえた人々

~明治150年記念~奈良の近代化をささえた人々

土倉庄三郎

林業分野とどまらず、多方面で活躍した「日本林業の父」「吉野林業の中興の祖」

土倉庄三郎は、天保11年(1840年)に奈良県吉野郡川上村大滝の林業家の家に生まれました。父から山林経営の手法を学び、伝統の吉野林業を集大成し、日本全国に植林の意義を広め「林業興国」を説きました。

庄三郎は卓越した先見の明の持ち主であり、その行動は林業分野にとどまらず、政治、経済、教育など多方面に及びました。ここでは「日本林業の父」「吉野林業の中興の祖」土倉庄三郎の非凡な功績の数々をご紹介します。

【土倉庄三郎】

天保11(1840)年
川上村大滝に生まれる
安政 2(1855)年
父に代わり稼業に就く
明治 2(1869)年
吉野郷材木方大総代 県産物材木取締役
明治 9(1876)年
大滝に小学校設立
明治12(1879)年
東熊野街道着工
明治14(1881)年
新島譲に民間大学設立の支援を約す。
明治15(1882)年
私学校・芳水館設立
板垣退助洋行費支出
明治17(1884)年
五條~上市間の道路改修着工
明治22(1889)年
伊香保に造林開始
明治28(1895)年
奈良公園造林開始
明治29(1896)年
成瀬仁蔵の「日本女子大学」設立の寄付
明治31(1898)年
『吉野林業全書』の刊行
但馬に造林開始
明治32(1899)年
『林政意見書』発行
明治33年(1900)年
山縣有朋より「樹喜王」の称号を贈られる。
明治39(1906)年
大滝修身教会設立
明治40(1907)年
兵庫県但馬地方(朝来)植林事業開始 

吉野林業全書の出版

林業における庄三郎の功績として、土倉式造林法があげられます。父祖伝来の吉野林業の造林技術の上に自らの考究、研鑽を重ね工夫を加えたものであり、その成果を世に問うため『吉野林業全書』を刊行しました。それまでの造林技術では、「本数を稼ごうとして密植をすると、立派な木は育たず、良くない」とされていましたが、土倉式造林法ではあえて密植を行い、頻繁に間伐をすることにより木の成長を確保しつつ、間伐した木も商品にしました。こうして成長した木は「無節」(節がない)、「通直」(真っ直ぐである)、「完満」(根元から末口までの太さがほぼ同じである)といった特徴を有し、良質な材として全国に知られるようになりました。この技術を持って各地への造林がはじまり、滋賀県西浅井、群馬県伊香保、兵庫県但馬、静岡県天竜をはじめ奈良公園の森林改良や台湾台北県での造林にも進出しました。台湾で植林されたものは戦後沖縄に電柱として輸出されるようにもなりました。 庄三郎は各地に大規模な山林経営を手掛けましたが、彼が一個人の営利だけでなくひろく社会の利益を考え、また環境的機能と産業的機能を両立させたものでした。

インフラ整備により地域経済の発展に貢献

庄三郎は造林法だけでなく、インフラ整備に目をむけていました。林業の要は運搬にありとしてこの点を熟知していました。明治3年(1870年)に政府より陸海路御用掛に任命され、文字どおり、陸と川と海の交通路の整備を担当しました。明治6年(1873年)から8年にかけて、吉野川の水路の開削として、川上村北和田から吉野町宮瀧までの延べ32キロについて、浚渫工事(川底の土砂を取り除いて深さを確保する工事)や川幅の拡幅工事を行いました。また、道路では、明治12年(1879年)から現在の国道169号の吉野町宮滝から川上村を横断して上北山村に通じる東熊野街道の整備を、明治17年(1884年)から吉野町宮滝から五條市へと通じる道路の整備を行いました。五條市の宇野峠には建設碑が建立されています。更に、三重県北牟婁郡の大杉谷の開発にかかわり、東熊野街道から三重県船津までの私道(林道)を開設し、分岐したルートとして大台ケ原までのルートも開設しました。
東熊野街道や宇野峠の工事費用については「青山20分の1」といって、山林評価の20分の1を所有者から出資させて整備を行いました。このように庄三郎はインフラ整備を積極的に行い林業のみならず地域経済の発展にも大きく貢献しました。

卓越した先見の明により、吉野の桜を救う

明治初期、大阪の商人が吉野の桜を買い取り、薪にしようとしました。これを知った庄三郎は、自ら500円を出して、直ちに桜を買い戻しました。「いずれ日本は世界の国々と交流するようになる。その時に、日本のシンボルである桜は必要だ」というのがその意図であったとされます。庄三郎が予想したとおり、吉野の桜は外国人に知られるようになり、特に吉野山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に認定(2004年)されてからは外国人観光客も多く訪れています。
今日、我々が吉野の桜を楽しむことができるのは、庄三郎の先見の明によるものと言っても過言ではありません。

教育への支援

庄三郎は自らの財産を3分の1は国のため、3分の1は教育のため、3分の1は事業のためとし、教育にも充分な支援を行いました。明治8年(1875年)に川上村大滝に私費を投じて小学校をつくり、教科書や文房具を支給しました。翌年には当時としては珍しい洋服の制服も支給しました。明治15年(1882年)には自らの屋敷の隣地に私塾芳水館を開設し、長男や近在の青少年にも受講を認めていましたが、入塾希望者が増え3年後には隣の地区の西河地区に寄宿舎や教師の住宅も備えた学舎を建築しました。指導者も私費で雇い、漢学、算術、英語、武道の学科があり私塾の枠を超えたもので中等教育機関へと発展しました。また、次男、三男等の教育のため、明治14年(1881年)に新島譲と面談して、同志社大学の設立に賛同し、即座に出資を約束するだけでなく資金計画さえもしたとされています。また、庄三郎は同志社大学だけでなく、女子の高等教育の必要性を説く成瀬仁蔵の日本女子大学の設立についても、寄付を行うとともに、他の募金者に対して大学が設置されなかった場合には、責任を取って出資金を返還するとの保証を付けて寄付を募りました。こうして明治34年(1901年)に日本女子大学が創設され、明治期の女子教育をはじめ教育界に大きく貢献しました。

自由民権運動を後押し

明治の時代に、国民の自由と権利を求めた自由民権運動は始まりました。自由民権運動の中心人物であった板垣退助の洋行費用を提供し、板垣は帰国後に庄三郎を訪問しています。また、伊藤博文、大隅重信、山縣有朋などの要人も庄三郎の支援を求めて川上村に「土倉詣」をしたと言われています。

今なお残る庄三郎の面影

土倉庄三郎像
岸壁碑文

庄三郎は大正6年(1917年)、77歳でこの世を去りました。庄三郎の偉業を偲ぶため、大正10年(1921年)、川上村大滝の吉野川右岸の岩壁に「土倉翁造林頌徳記念」の碑文が刻まれ、今日でも見ることが出来ます。また生家跡には「土倉庄三郎像」が建てられています。なお、平成28年(2016年)には川上村で「土倉庄三郎翁没後100年記念式典」が催され、庄三郎が支援した同志社大学の総長や日本女子大学の学長の参列もありました。このように庄三郎の偉業は、今日の我々にも受け継がれています。