一万数千年前まで遡る縄文土器は、人類史でも一番古い「やきもの」のひとつと言われています。ただし焼成温度の低い縄文土器から、弥生時代の土師器(はじき)、古墳時代の須恵器、そして平安時代以降の陶器、近世以降の磁器という高温焼成への変遷は、中国大陸や朝鮮半島の工人がもたらしたものです。縄文や弥生の古拙の味わいを再現した安土桃山時代の「つちもの」から九谷や有田、薩摩の精緻な色絵磁器や青磁まで非常に多彩で、わが国の現代陶磁器界は世界でもっとも豊かな種類を生み出しています。
西洋料理や中華料理のコース料理では、始めから終わりまで同じ意匠や種類で統一された食器に盛りつけられます。これは、正餐にばらばらの意匠の器を用いたら、間に合わせのようになって貧相で大変失礼になるからです。
一方、茶懐石に起源を持つ懐石料理や料亭の会席料理では、盛りつける器に一つとして同じ意匠のものはありません。おそらく各ご家庭の食膳でも同様だと思います。これは同じ意匠の器を意図的に忌避した馳走・数寄の美学に基づきます。そして近代以降の料亭の懐石料理を完成させた北大路魯山人(1883〜1959)や吉兆創業者の湯木貞一(1901〜1997)らが、器の取り合わせを重視した結果、近代陶芸は料亭や料理旅館の需要で活況を呈し、各地の窯元で多くの陶芸家が輩出しました。
近代陶芸の第一期として、明治時代に外貨獲得のために欧米へ輸出された色絵陶磁器は、九谷焼、有田焼、薩摩焼などがあり、技法的に最高度に完成されて、欧米で大ブームを巻き起こしました。そして陶工ではなく陶芸家による「陶芸」が確立した第二期には、多治見市出身で美濃焼や志野焼などの桃山茶陶を研究した荒川豊蔵(1894〜1985)がいます。彼は、鎌倉の星岡窯における魯山人との親交を通じて食のプロデューサとしても活躍しました。また三重県の百五銀行頭取をはじめ、実業界で活躍しながら、書画や陶芸制作を愛して東の魯山人と謳われた川喜多半泥子(1878〜1963)は、荒川とともに、京都鳴滝の尾形乾山(1663〜1743)の窯跡を調査し、乾山研究に大きく貢献したことでも知られます。
こうした近代陶芸は、美術評論家の柳宗悦(1889〜1961)らが理論的後押しをした「民芸(民衆藝術)」という新しい工藝分野として発展しました。柳に影響を及ぼしたのが、ウィリアム・モリス(1834〜1896)らが提唱した英国発祥のアーツ&クラフツ運動の陶芸家で、日本にも滞在したバーナード・リーチ(1887〜1979)が有名です。そうしたなかから頭角を現したのは板谷波山(1872〜1963)や濱田庄司(1894~1978)、島岡達三(1919〜2007)、加守田章二(1933〜1983)らが知られます。また水甕など大型の実用陶器を造っていた備前窯の再興に一生を賭した金重陶陽(1896〜1967)や沖縄の壺屋焼を復興した金城次郎(1911〜2004)も忘れてはなりません。こうした近代陶芸の隆盛に、世界に先駈けて1954年に制定された「重要無形文化財(人間国宝)」制度が大きな役目を果たしたことは外せません。しかし、民芸運動の第一人者・河井寛次郎(1890〜1966)は、師弟関係からではなく学校教育から生まれた造形作家で、民衆藝術の作家であろうとした彼の矜持は、人間国宝を辞退したことでも示されました。
また瀬戸系の桃山陶芸の研究と再現に尽力した加藤唐九郎(1897〜1985)は、「永仁の壺」事件(1960)で知られ、非常に精巧な古瀬戸の贋作を制作したことでかえって高く評価されました。
さて、奈良県立美術館では7月8日から9月3日まで『富本憲吉展のこれまでとこれから』展を開催いたします。作家の個性を強く主張した富本憲吉(1886〜1963)は、奈良県生駒郡安堵町の大地主の家に生まれ、東京美術学校で建築や室内装飾を学び、アーツ&クラフツ運動に大きな影響を受けました。陶芸は、バーナード・リーチから刺激を受け、各地の窯元を訪ねました。そして楽焼きに始まり、李朝の影響を受けた白磁、1926年から世田谷に窯を移してからの白磁の色絵付けが花開いた「東京時代」、そして戦後には京都に窯を築き、金銀彩を用いた絢爛な作陶様式を完成させました。現在、百貨店の食器売り場に並んでいる清水焼や京焼には、富本の意匠を承け嗣いだものがたくさんあります。また、安堵町の彼の生家は、「うぶすなの郷」として一日二組限定の料理旅館として再生されており、本展ではその建物の紹介もしています。ぜひこの機会に、近代陶芸の巨匠・富本憲吉の全貌をご覧下さい。
日本のやきものマップ(日本セラミックス協会web)
2023年7月9日
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司