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12 後醍醐天皇と吉野

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を始めましたが、足利尊氏に敗れ、吉野に「南朝」を開きました。
これにより、京都の「北朝」と吉野の「南朝」が並立する南北朝時代が始まります。
後醍醐天皇と吉野、南朝・後南朝、さらに今も残る南朝祭祀についてご紹介します。

復活を夢見る地「吉野」

  • 義経隠れ堂

吉野は奈良県全域の64%を占め、神奈川県や佐賀県に匹敵する広大な地域です。奈良県のほぼ中央に位置し、北部は飛鳥に隣接し、南部は大峰山を中心にした広範な山岳地帯で、熊野に通じています。

豊かな自然に恵まれた吉野は、大和盆地に都が置かれた太古の昔より多くの人々の心を惹き付けてきました。

歴史を振り返ると、応神天皇以来幾度も吉野への行幸の記録があり、離宮として吉野宮が築かれました。
また、中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子は、乙巳の変で自分の後見人であった蘇我入鹿が殺されたのを見て吉野に向かい、兄頼朝に追われた源義経は、静御前や弁慶を伴って吉野吉水院に入りました。

このように、吉野は中央で居所を失った人々が再起を図る場所でもありました。そして「南朝」を開いた後醍醐天皇も、吉野で復活を望んだ一人でした。

南朝の歴史

京都で2度の討幕(正中の変、元弘の変)を企てた後醍醐天皇は、正慶元年(1332)鎌倉幕府に隠岐に流されました。

しかし、楠木正成や後醍醐天皇の子、護良親王らによる討幕運動が続くと、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、討幕を呼びかけます。

足利尊氏、新田義貞らが正慶2年(1333)に鎌倉幕府を滅ぼすと、後醍醐天皇は帰京し、幕府・摂関を廃して天皇による親政「建武の新政」を開始します。しかし親政は破綻し、後ろ盾となっていた足利尊氏の離反に遭ったため、後醍醐天皇は比叡山に2度逃れますが、ついに京で幽閉されてしまいます。

建武2年(1336)、尊氏は持明院統の光明天皇を立てますが、後醍醐天皇は京を脱出し、尊氏に渡した三種の神器は偽物であるとして、吉野に朝廷を開きます。

ここに、吉野の「南朝」(大覚寺統)と京都の「北朝」(持明院統)による南北朝の時代がはじまります。
後醍醐天皇は、吉野に入ってわずか3年で亡くなりますが、南北朝統一まで57年、その後さらに「後南朝」が65年、吉野での南朝の歴史というのは長く続くことになります。

1336年
後醍醐天皇は西吉野村(現賀名生皇居跡 堀孫太郎信増宅)に立ち寄り、吉野に入る
1348年
四条畷の戦い 足利尊氏家臣の高師直と戦った南朝側楠木正行が敗死
1339年
後醍醐天皇逝去 吉野行宮陥落
後村上天皇は賀名生の黒木御所に遷座
1354年
北畠親房死去
1358年
足利尊氏死去
1359年
筑後川の戦い 敗れた足利軍は大宰府に逃れる
1392年
南朝4代目後亀山天皇が北朝6代目後小松天皇に三種の神器を渡して「明徳の和約」が成立し、南北朝統合。
1408年
足利義満死去

後南朝と「御朝拝式」祭事

  • 自天王陵墓のある自天親王神社(川上村)

「明徳の和約」では、北朝と南朝が交代で継承することになっていましたが、応永19年(1412)、北朝の後小松上皇の後を上皇の子である称光天皇が継いだことから、南朝側の反発を招きました。

嘉喜3年(1443)には、南朝側の皇族とされる通蔵主・金蔵主兄弟らが、御所を襲撃して後花園天皇の暗殺未遂を起こし、三種の神器の剣と神璽(勾玉)を奪う「禁闕の変」を起こします。兄弟は比叡山に逃れましたが、室町幕府に鎮圧されます。奪われた神器のうち、剣は北朝側に戻りますが、神璽は南朝側に残ります。

金蔵主は「尊義王」とも呼ばれ、嘉喜3年(1443)に後南朝の初代天皇に即位し、これが「後南朝」の始まりとなったとの説もあります。その後、金蔵主の子であるとされる尊秀王と忠義王が後を継ぎ、現在の上北山村・川上村あたりに本拠地を構えたとされますが、長禄元年(1457) 赤松家の家臣が尊秀王を殺し、首と神璽を持ち去ります。後に郷士たちが首と神璽を取戻し、首は川上村の金剛寺に手厚く葬ったといわれています。

  • 御朝拝式

尊秀王は地元では「自天王」と呼ばれており、金剛寺では若くして亡くなった自天王を偲んで「御朝拝式」を1459年から毎年、尊秀王が即位したとされる2月5日に、今日に至るまで続けています。この儀式は、「筋目」とよばれる、川上村の役目の人々で担われ、この際に自天王が生前着用していた兜などを擁する宝物殿が年に一度だけ開帳させます。平成31年の2月5日で562回目となります。

今では奈良県の「無形民俗文化財」指定を受けており、誰でも見学できるようになってます。

監修:奈良大学准教授 村上紀夫先生