第4回 やまとぢから

 2013年に、当館を始め全国4館を巡回した「籔内佐斗司展 やまとぢから」(読売新聞社主催)のために、「やまとぢからの童子」をキャラクターとして制作しました。せんとくんの弟分的位置づけで、展覧会が終わった後は、私の個人的キャラクターとして使っていましたが、奇しくも今年の春から当館に勤めることになりましたので、当ウエブの「館長の部屋」のキャラクターにすることにしましたので、どうぞよろしくお願いします。そしていつか、館全体の合意が得られたら、当館のキャラクターに昇進させてもいいかなと思っています。

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 ↓ 奈良県立美術館での「やまとぢから」展 (左)ポスター (右)会場

exhibition

 「やまとぢから」は、本居宣長の「やまとごころ(大和心)」にヒントを得たことばで、やまとごころから発せられる日本の底力を意味しています。
 「やまとごころ(大和心)」と対比する「からごころ(漢意)」について、国学者・本居宣長は彼の随想集『玉勝間』に、このように書いています。
「漢意とは、漢国(からくに)のふりを好み、かの国をたふたぶのみをいふにあらす。大かた世の人の、万の事の善悪是非をあげつらひ、物の理をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」
 本居宣長は、批判精神と反骨精神に満ちたひとでしたので、儒学も仏教も論難していますし、鴨長明や兼好法師もやり玉に挙げています。しかしその批判は、たいへん論理的で国学の見地から筋の通ったものですから、嫌みはありません。彼の指摘は、中国文明を日本人の古来のこころ根から分別しなければならないとの思いからの批判でした。


 縄文以来、大陸から隔絶された日本列島に住んだひとびとは、つねに自分たちの文化と外来の文明との二重の価値観の相剋に直面してきました。それは現代も続いています。
 最近、日本の経済力が低下するとともに、外来語であるカタカナ語が氾濫しています。私は、「外来語は、本来の表記を用いるべき」とかねてから主張しています。たとえば、英語の「rhythm」を「リズム」と表記しても、「リ」が「r」か「l」か、また「ズ」が「z」か「th」か、外国のひとは大いに混乱します。大学に勤めていた頃、「日本語の勉強で何が一番むつかしい?」と留学生に聞いたら、即座に「カタカナ語」と応えてくれて、大いに納得しました。
 ずいぶん前に香港へ行ったとき、「麦当労(マクドナルド )」 「肯徳基(ケンタッキー)」を初めて目にしたときは目眩がしたものです。
 最近、美術分野でよく見かけるキュレーター・Curator は、欧米各国で仕事の役割が異なります。日本の美術館や博物館なら、従来の学芸員や学術研究者で充分意味は通るし、その内容を補足するのであれば、「経営管理」「企画製作」「蒐集」「展示」「渉外」などと追記すれば、仕事内容がよりわかりやすく正確になるでしょう。また curationについては、茶人が行う「数寄」や「取り合わせ」に他なりません。そして現代を代表する碩学・松岡正剛氏は、curationにあたる言葉として、編集工学というすばらしいことばを発明しています。
 日本人の知的「やまとぢから」の低下を招かないためにも、安易なカタカナ語の乱用はやめて、外来語を概念から問い直しながら美しい日本語に置き換える努力を忘れないようにしたいものです。


2021年5月4日

館長 籔内佐斗司